1997年「ダイキンオーキッドレディスゴルフトーナメント」で優勝した高又順(韓国)(撮影:ALBA)

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2022年11月。女子ツアー最終戦LPGAツアーチャンピオンシップリコーカップ会場のハイビスカスGC(宮崎県)に入った高又順(韓国)は、心に余裕を持っていた。

当時38歳。現在のように20代前半の選手ばかりが活躍していたわけではない当時のツアーでは、一番脂の乗った時期と言われる年代だ。10月には、箱根CC(神奈川県)で行われた日本女子オープンで念願の優勝を飾り、自信も深めていた。

「若い頃は『予選落ちしたらどうしよう』と焦ったりしたこともあったけど、ゴルフでも経済的にも、余裕ができていた頃でした。人生の余裕っていうのかな。これから楽しいゴルフをしていきたい、と思っていました。勝てたら、そこでゴルフを終わりにしてもいいと思っていたくらい勝ちたかった日本女子オープンに勝てましたから」

まさに円熟期。そのシーズンの締めくくりが、LPGAツアーチャンピオンシップリコーカップだった。

1993年から最終戦の舞台は宮崎となり、96年からは4日間大会となって公式戦としての形をようやく整えていた。98年にはコースを青島CCからハイビスカスGCへと移して5年目。現在、大会が行われている宮崎CCへとさらにコースが変わる前年のことだ。

高校卒業後にゴルフを始め、2年後に韓国のプロテストに合格してプロとなった高。89年から4年連続で韓国ツアー賞金女王となり、93年に日本のプロテストに合格した。翌94年から日本ツアーに乗り込み、この年、早くも2勝を挙げて強さを見せつけていた。

日本ツアーに腰を据えてコツコツと勝ち星を重ね、日本女子オープンがツアー7勝目。初の公式戦タイトルだった。

■不動裕理と藤井かすみのタイトル争いに注目が集まり、周囲はヒートアップ

3年連続賞金女王を目指す不動裕理と、それに立ち向かう藤井かすみのタイトル争いが注目を集める中、最終戦は始まった。初日に3アンダーで回った藤井が単独首位に立ち、逆転女王か、と周囲はヒートアップ。1打差でウェイ・ユンジュと高橋美保子。さらに1打遅れて高、肥後かおり、具玉姫、天沼知恵子、曽秀鳳の5人が追う。不動もイーブンパー9位タイとまずまずの位置にいた。

2日目、藤井がひとつスコアを伸ばして通算4アンダー。3バーディ・1ボギーの高は2打差2位。肥後、ウェイと同じ順位で追撃態勢に入った。

3日目、それまで比較的静かなゴルフを続けていた高が爆発した。5バーディ・1ボギーとスコアを伸ばして通算6アンダー。藤井は1アンダーまでスコアを落とした。最終的には5位に終わって女王タイトルを逃すのだが、高はそのスキに単独首位に立つ。これに続いたのが肥後だった。2打差で高を追う展開で最終日を迎えた。

■最終日は肥後かおりとの1打を争う一騎打ち

限られたものしか出場できない大会のため、初日から2サム。最初のペアリングは、大会前までの賞金ランキングで決まり、2日目以降は通常の試合どおりに成績順だ。最終日は高と肥後が顔を突き合わせる優勝争いとなった。

肥後はそれまでに通算16勝している実力者。「強い肥後さんとは何度も上位でプレーしている。でも、なかなか勝てなかった。体が柔らかくて、男子みたいにアイアンが上から下りて来る選手でした」というのが、当時の高が持っていた印象だ。

最終日は、そろって3番でボギーを叩くが、続く4番で高はバーディ。6アンダーにスコアを戻すが、一方の肥後は連続ボギーで差は4打に広がった。だが、高も7番、9番でボギー。再び差は2打に縮まった。

バックナインに入ってからも、勝負の行方は混とんとしたまま。11番バーディ、13番ボギー、14番バーディと出入りの激しい高に対し、肥後は不気味なほどスコアカードどおりのプレーを続けていた。

肥後のスコアが動いたのは、15番だった。バーディを奪って高との差が2打に縮まった。そして17番もバーディとして1打差に迫る。このホール、高はグリーン右のバンカーにつかまり、4メートルのパーパットを残していた。外せば4アンダーでふたりが並ぶ場面。だが、高はこの大事なパットをしっかりと決めた。

1打差で迎えた最終18番はパー5。バーディ必須の肥後が、先にパーで終わったことで、気持ちが楽になった高は3メートルのチャンスを沈めてバーディフィニッシュ。見事優勝を勝ち取った。

「17番が入ってよかった」と、当時、高はコメントを残している。勝負どころの大切なパーセーブ。これで得た1打のアドバンテージを、高は生かした。

「18番は、先に肥後さんが(バーディパットを)外していたから気持ちに余裕がありました。プレッシャーがないと、カップは下に下がったようにボールが入ってくれるものです。入れないとプレーオフ、という場面だったらたぶん入らなかった」と振り返るウイニングパットだった。

この年ふたつ目の公式戦タイトル。優勝した瞬間の気持ちを、こんな風に表現する。「すべてが自分のものになった感じがしました。うれしさは言葉にできなかった。これで王者になった、というような気持ちでした」。

ふたつもらえる優勝カップの重みを感じないほどの喜びにあふれた最終戦優勝。現在も、QTに挑み続け、レジェンズツアーなどを中心にプレーしている中で「今でもたまに夢に出てくる」というほどの記憶となり、糧にもなっている。(取材・文/清流舎 小川淳子)