シャロウマーケティングからナロウマーケティングへ/純丘曜彰 教授博士
20年来、IT産業だ、と言って大騒ぎし急成長したが、どこも天井が見え、もはや先行投資を口実とした赤字の垂れ流しが許されなくなってきて、一斉にコストダウンのための人員削減に走り始めた。結局のところ、連中はしょせん前世紀的な大衆消費社会のパラダイムの中の存在であり、その最後の徒花にすぎなかった。
20世紀末、ITの創生期から問題になっていたのが、技術的な困難よりも、その法外な開発費用を賄うにたるマネタイズの方法だった。それゆえ、それは、当初、国防や大学の研究機関、好事家の個人趣味に留まっていた。ところが、2000年を超えるころ、先行者たちが築いたインターネットのインフラに便乗する形で、大衆化されたIT企業が次々とラウンチ。とりあえず利用者を集めろ、利益は後から付いてくる、とばかりに、急拡大し、市場から巨額投資を集めて、淘汰と吸収の末に現在の形に。
とはいえ、結局のところ、驚異的な利用者数のみを「資本」とする大衆IT企業というのは、新聞、ラジオ、テレビに代わるメディアで、そのマネタイズモデル、つまり、大衆消費財企業からの広告出稿を奪い取っただけ。新しさのかけらも無い。
戦争はもちろん経済も国家総力戦となったナポレオン以降、国家も企業もとにかく大量の兵員と工員を必要とし、地方の貧しかった人々を、それより上、中の下の「大衆」に取り込み、その生活向上を計ることによって、大量生産大量消費の20世紀の繁栄を築き上げてきた。ここにおいて、次から次へと開発されてくる新商品を津々浦々まで宣伝すべく、新聞からテレビまで、広告媒体としてのマスメディアが隆盛。そして、大衆IT産業も、この延長線上に陣をはった。
しかし、この間に、多くのものが機械による自動生産にシフト。戦争ですら、ただ多いだけの軍隊など、その兵站の自重で自滅するありさま。まして、IT産業などは、少数精鋭の天才的なエンジニアたちの画期的なひらめきで活路を開くもの。ただ、それがいまさらながらの大衆路線であったために、もっともヴォリュームのある中の下に関心を合わせる必要があって、そのコンテンツのレベル調整のために、どうでもいいような人材をも大量採用してきた。
だが、自動生産と少数精鋭によって世界的に進みゆく社会の経済格差の結果、急激に大衆が没落していっている。連中は、ただでぶらさがるだけで、カネを落とさない。いや、落とすカネが無い。そもそも、だれでも大卒というような、ばかげた産業の高次化で、産業の基幹となるべき農業食料や工業素材の生産力が衰退毀損していってしまっており、国家も社会も、国家や社会の生産力にぶらさがるだけの大衆にただ飯を食わす余力を失いつつある。いったい、この時代に、売る商品も無い企業が、購買力も無い中の下の大衆に向けて、薄っぺらな大量広告を出す意味があるだろうか。
そもそも、テレビのようなマスメディアはもちろん、新規に見えるだけのIT産業にしても、いまだに中の下の大衆に薄く広くターゲットを合わせたシャロウマーケティングの結果、ほんとうに購買力を残しているエクスクルーシブな顧客層が近づかなくなってきている。検索をかけても、ポータルサイトを見ても、自分たちとは縁の無い下世話な人々のあれこればかり。その大声にかき消され、自分たちがほんとうに必要としているモノ、必要としている情報にはなかなか到達できない。
もともと、いまやなにもかも供給量が限られてきている。それを大衆に宣伝したところで、連中に購買力は無いし、企業側も売る商品を準備できない。それでも、大衆IT産業は、救い反転の見込みも無く、ただ没落していくだけの働きバチたちの、麻薬的なガス抜き憂さ晴らしの痛み止め、緩和ケアとしては、今後もしばらくはかえって人気を博するだろう。だが、広告出稿が激減し、ターゲットの大衆も消滅してしまう以上、将来性は無い。
良くも悪くも、時代は囲い込みにシフトしている。安定した収入で家を持て、結婚して、子供がいて、それらそれぞれに高度な教育を施せるクラスは、急激に絞り込まれていっている。彼らは、むしろ現実の危機感を忘却させ、目先の逸楽的消費ばかりを促す麻薬的な大衆ITメディアには近づかない。それどころか、個人としての個性、将来性を奪うものとして、はっきりと背を向け、家族ともども忌み嫌っている。新しい技術は、新しい革袋へ。ITを使う以上、いかにして彼らにリーチして信頼関係を築くか、が、ナロウマーケティングの課題だ。