ロシアに占拠されたウクライナ南部に反攻したウクライナ軍兵士に泣きながら話しかけるウクライナ女性(写真・Lynsey Addario/The New York Times)

ウクライナ戦争が新たな局面に入った。2022年11月9日、約4万人規模のロシア軍が立てこもっていた南部ヘルソン州の州都ヘルソン市から全面撤退することを発表したからだ。ヘルソン州は2022年9月末にプーチン大統領が併合宣言した東・南部4州の一つ。同年2月末に始まった侵攻直後にロシア軍が制圧し、侵攻の成果を誇示する象徴だった。

それだけに撤退決定は、プーチン氏にとって、侵攻開始以来、最大の軍事的打撃となった。敗色濃くなったプーチン体制の一層の動揺は避けられない情勢だ。

ウクライナ側の巧妙な作戦

今回ロシア軍による撤退決定の最終的引き金になったのは、州都をひそかに完全包囲しようと動いていたウクライナ軍の巧妙な作戦だった。今後、ウクライナ軍は本当にロシア軍部隊が完全に撤退するのかどうか、状況を見極めつつも、新たな攻勢に出るとみられる。

次の標的として有力なのは隣のザポリージャ州の要衝メリトポリだ。メリトポリはクリミア半島の「玄関」とも呼ばれ、半島と南部を結ぶ鉄道輸送の拠点。ウクライナ軍がクリミア奪還に向けた布石として、近くメリトポリ攻略に向け動き出す可能性も出てきた。

ヘルソン市は人口30万弱の港湾都市だ。2022年8月末の反転攻勢開始以降、ウクライナ軍が奪還を目指してドニエプル川西岸にある同市をすでに東西北の3方面から包囲していた。これに対しロシア軍は、精鋭部隊である空挺部隊や特殊部隊などを投入して、南側のドニエプル川を背にする形で守っていた。

しかし唯一残っていたヘルソン市南側からの補給路を、ウクライナ軍がアメリカ提供の高性能ロケット砲「ハイマース」などで徹底的に叩いたため、弾薬や食料が尽きかけていた。ロシア軍は一度、撤退の許可を国防省に求めたが、プーチン大統領自身が死守を厳命したため、市内に立てこもっていた。その意味で、今回の撤退決定はこの死守命令を撤回したものといえ、プーチン氏にとっては撤退自体とともに二重の屈辱となった。

これまで、ヘルソン市からのロシア軍撤退の情報は何度も流れていた。しかしウクライナ側はウクライナ軍を市内での市街戦に誘い込み、打撃を与えるロシア軍の偽装作戦の可能性があると警戒していた。市民も市内に残っており、戦死者をなるべく少なくする戦略をとるウクライナ軍は市街戦を避けていた。

しかしウクライナの軍事筋によると、最近、ウクライナ軍は同州東部でドニエプル川を渡河してひそかに南下し、南部からも市を包囲する作戦を開始していた。この作戦が完了すれば、ヘルソン市は東西南北から完全な包囲状態になる。この動きにロシア軍が気付き、慌てて撤退発表に至った。


ロシア軍の侵攻状況(写真・共同イメージリンク)

一方で、今回の撤退決定は、わざわざロシア国営テレビが決定場面を放送するという異例の形となった。この背後では、クレムリンのいくつかの苦しい狙いが見え隠れする。

一つは、撤退がクレムリンではなくロシア軍部の失敗であることを強調し、プーチン氏に批判の矛先が向かないようにするための世論工作だ。侵攻作戦を統括するスロビキン司令官がショイグ国防相に撤退を提案。国防相が賛成を表明するシーンを演出したのも、このためだろう。

もう一つの狙いは、ロシア軍が将兵の生命を大事にしているとの姿勢をロシア国民に向けにアピールする狙いだ。この背景には、2022年11月に入ってロシア軍兵士の戦死者が大幅に増加していることがある。

ロシア動員兵をめぐる悲惨な話

ロシアの独立系メディアなどの報道によると11月1日、東部ルガンスクで9月の部分動員令で招集された動員兵で構成された大隊がウクライナ軍の集中砲火でほぼ全滅し、約570人が戦死した。この部隊はスコップ3本しか与えられないまま、手で塹壕を掘らされていたという。

動員兵をめぐる悲惨な話はウクライナ軍も発表している。それによると、ロシア軍はウクライナ軍の火砲の位置を調べる目的で、銃を持たせないままで動員兵を囮として最前線に飛び出させているという。このため、怒った動員兵の間で反乱が起きて、上官を射殺する事態も起きているようだ。軍服や銃など満足な装備も与えられないことに怒った動員兵たちの集団投降や、プーチン氏への批判もSNSで流れている。

現時点で、こうした状況に対する国民の不満が社会に広く拡散するという事態にはまだ至っていない。しかし、この状況が続けば、政権批判の高まりにつながる可能性はある。クレムリンとしては、不満のマグマが大規模な反戦運動として噴出する事態を未然に防がなければ、という危機感があるとみられる。

プーチン氏は2022年11月3日、動員兵に日本円で約45万円の一時金を支払うと発表したが、これもこうした危機感の表れだろう。

戦況も好転せず、国民の間で戦争への不満も芽生え始めているという苦しい中で、クレムリン内では、プーチン氏がいまや、政権維持装置として2人の部下に強く依存する新たな権力構造が生まれている。2人とは、民間軍事会社ワグネルの創始者であるプリゴジン氏とチェチェン共和国のカディロフ首長だ。

ロシア連邦保安局(FSB)出身のプーチン氏にとって、これまで大きな権力基盤は情報機関であり、軍部だった。しかし両機関は、クレムリンからは侵攻での苦境をもたらした戦犯扱いされており、プーチン氏としては、より実行力のあるプリゴジン氏とカディロフ氏に頼らざるをえなくなっている。

侵攻作戦の中で失態を繰り返す軍部と異なり、各戦線でウクライナ軍と張り合っているワグネル部隊を率いるプリゴジン氏をプーチン氏が頼もしく思っているのだろう。プリゴジン氏は兵員不足を補う苦肉の策である、受刑者の動員でも先頭に立っている。カディロフ氏率いるチェチェン人部隊も戦力として目立っている。

プーチン側近による自軍批判

この依存関係を物語るように、プリゴジン氏とカディロフ氏の言動は次第に過激になってきている。2人とも作戦や軍幹部への批判も繰り返している。

プリゴジン氏は2022年11月7日、ワグネル社がアメリカの選挙に干渉してきたとあけすけに述べ、アメリカのメディアを驚かせた。従来、クレムリンで陰の存在だったプリゴジン氏のこれ見よがしの言動は、部下が目立った行動をすることを嫌うプーチン氏にとって、従来なら許されないはずの行動だ。それだけ、プリゴジン氏には行動に一定の自由が認められているということだろう。

もはや誰の政治的介入も許さないという「強い独裁者プーチン」のイメージは消えている。

クレムリン内部でこうした政権の立て直しを進める一方で、プーチン氏として目下の最大の関心時はウクライナ側との間で何らかの停戦交渉にこぎつけることだろう。

なぜなら、今後ヘルソン市を奪還すればウクライナ軍の攻勢が一層強まることは必至だからだ。おまけにイラン供与の無人機などを使い、2022年10月初めから始めたウクライナへのインフラ攻撃も、形勢逆転への完全なゲームチェンジャーにはなっていないのが実情だ。戦局の主導権は相変わらずウクライナ側が握ったままだ。

このため何とかウクライナ側との間で停戦交渉を始めることで、反転攻勢を一時的にでも止めて、態勢立て直しの時間的余裕を得たいとプーチン氏が考えているのは間違いないところだ。

停戦交渉へ世界から同調ほしいプーチン

2022年11月15〜16日にインドネシアのバリ島で開かれる20カ国・地域首脳会議(G20サミット)にプーチン氏は結局欠席を決めたが、何らかのメッセージを寄せる可能性はあるという。ロシアは中国、インド、開催国のインドネシアなどから、停戦交渉を求める声を集めたいところだろう。

G20以外でも、食糧危機やエネルギー危機への懸念から、ウクライナ戦争の早期終結を求める声が多い、アフリカ、アジアなど、いわいるグローバル・サウス諸国にもロシアは同様の働き掛けをしているとみられる。

それでも、停戦交渉がすぐに実現する可能性は今のところ、高くないといえる。

アメリカでの報道によると、バイデン政権はプーチン氏との和平交渉を断固拒否しているウクライナのゼレンスキー大統領に対し、態度を和らげるよう、やんわりと要請したといわれる。アメリカ議会からウクライナに対し、あまりに外交解決に後ろ向きすぎると批判が出ることをバイデン大統領が懸念しているといわれている。

この懸念を伝えられた後に演説したゼレンスキー氏は、確かにプーチン氏との交渉拒否をロシアとの交渉開始の条件から落とした。しかし戦争犯罪の追及などその他の条件は変更しておらず、実質的にはプーチン氏との交渉拒否の姿勢を変えてはいないといわれている。

ロシアとの交渉は、ロシアが2014年のクリミア併合以降に占領したすべての領土から撤退するのが前提というゼレンスキー政権の大方針は変わっていない。米欧もこの大方針支持に変わりはない。

こうしたことから、ロシアと、ウクライナと米欧との間では、自らへの同調国を増やそうと、水面下で外交合戦が今後ヒートアップするのは必至だ。

その一環として、米欧は中国やインドに対し、核兵器の使用や脅しをやめさせるためロシアを説得してほしいと外交的圧力を掛けているといわれる。とくに中国に対しては、国名を出さない形でも構わないので核兵器使用に反対するよう呼び掛けていると囁かれている。

中国の習近平国家主席は2022年11月4日の北京でのショルツ・ドイツ首相との会談で、ウクライナでの「核兵器使用や脅しに対し共同で反対する」との異例の共同声明を発表した。この声明はロシアには言及しておらず、米欧の圧力が奏功した可能性もある。

撤退はロシア側の「善意」か?

一方でロシアの今回のヘルソン撤退決定の裏にも、実は外交的思惑があるとの指摘もある。撤退について、戦闘回避に向けたロシアの善意の表れと一方的に強調することで、停戦交渉に向けた国際的な機運醸成につなげるという狙いだ。

これに関しては、ほかにも筆者が注目している点がある。2022年10月10日からロシアによるミサイル攻撃が続いていたウクライナの首都キーウでは10月31日以降、11月10日までの時点でイラン製ドローンやミサイルによる空襲がやんでいることだ。単なる偶然かもしれないが、気になるところだ。

しかし、軍事的苦境からの脱却を図るこうしたロシアの思惑をよそに、ウクライナはさらに占領地奪還を進める構えだ。先述したメリトポリ以外にもドネツク州の要衝マリウポリの奪還も図る可能性がある。マリウポリはアゾフ海に面した港湾都市で、ここを奪還すれば、ウクライナ軍が反転攻勢後、初めてアゾフ海に到達することを意味する。

メリトポリやマリウポリからは、クリミア半島へのミサイル攻撃も可能になる。軍事筋は今回のヘルソン撤退決定によって、ウクライナ側の奪還計画の進行が「3週間程度早まるだろう」との見方を示す。この言葉通りであれば、2022年11月から12月に掛けて、ウクライナの奪還攻勢は新たなヤマ場を迎えることになりそうだ。

一方で先進7カ国(G7)は2022年11月初めにドイツ西部ミュンスターで開かれた外相会合で、ロシアにウクライナ侵攻の即時停止を要求する一方で、ウクライナの越冬支援を約束する共同声明を発表して、ゼレンスキー政権をあくまで支える姿勢を示した。

これに関連して、2023年にG7議長国になる日本政府は、早期の停戦交渉を求めるロシア側に耳を傾けがちなグローバル・サウス諸国に対し、G7唯一のアジア勢として日本が単独で、より積極的にロシアによる侵攻の非道さとウクライナ支援の必要性をアピールすべきではないか。

(吉田 成之 : 新聞通信調査会理事、共同通信ロシア・東欧ファイル編集長)