なぜ私たちは新型のiPhoneを「ずいぶん高い」と感じるのか。一橋大学名誉教授の野口悠紀雄さんは「アベノミクスによる影響が大きい。異次元金融緩和が導入されたことによって、日本の購買力が低下してしまった。すでに実質賃金は韓国に抜かれており、このままでは一人あたりGDPでも抜かれることになる」という――。(第1回/全3回)

※本稿は、野口悠紀雄『どうすれば日本人の賃金は上がるのか』(日経プレミアシリーズ)の一部を再編集したものです。

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※写真はイメージです - 写真=iStock.com/NatanaelGinting

■日本の平均賃金は先進国の5割から8割程度

アメリカの賃金が著しい高さになっている。では、他の国はどうか? OECDが加盟国の平均賃金(Average annual wages)を公表している。いくつかの国について2020年の数字を示すと、つぎのとおりだ(2021年基準実質値、2021年基準実質ドル・レート)。

日本3万8194、韓国4万4547、アメリカ7万2807、ドイツ5万6015、フランス4万6765、イギリス4万8718、イタリア3万8686。人口が少ない国を見ると、スイス6万6039、オランダ6万1082、ノルウェー5万7048、アイルランド5万382、スウェーデン4万8206。

日本の平均賃金は、ここに挙げたどの国より低くなっている。トップのアメリカと比べると、52.5%でしかない。大雑把にいえば、「日本の水準は先進国の5割から8割程度」ということになる。

日本の賃金についてのもう一つの問題は、「上昇率が低い」ことだ。それを見るために2000年における各国の値を示すと、つぎのとおりだ(単位はドル)。

日本3万8168、韓国3万326、アメリカ5万7499、ドイツ4万7711、フランス4万76、イギリス4万0689、イタリア4万35。これと2020年の数字を比較すると、イタリアの数字は低下しているが、他の国は著しい上昇になっている。それに対して、日本は、この20年間に、ほとんど横ばいだ。

このため、2000年には日本より低かった韓国に抜かれてしまった。その他の国との乖離(かいり)も拡大している。日本の国際的な地位は、この20年間で低下したことになる。こうした現状を見ると、「令和版所得倍増計画」によって先進国並みになりたいと考えるのは、日本人にとってごく自然な欲求だ。

しかし、このままでは、先進国の賃金水準はさらに高くなってしまい、差はますます開いてしまう。賃金が高い先進国にキャッチアップするためには、成長率が先進国より高くなることがどうしても必要だ。それを実現するには何をしなければならないかを、考える必要がある。そのためには、なぜこうした状況になってしまったのかを、考える必要がある。

■賃金では韓国にも抜かれ、一人あたりGDPでも抜かれることになる

さきほど見たのは平均賃金である。では、一人あたりGDPではどうか?

2022年になってからの急激な円安のため、日本の国際的地位が大きく低下している。1ドル=130円台になると、日本の一人あたりGDPが、韓国やイタリアに抜かれる可能性が高い。まず韓国との関係を見よう。

2021年においては、日本の一人あたりGDPは4万704ドルで、韓国3万5196ドルより15.6%ほど高かった(図表1参照)。

一人あたりGDP 出所=『どうすれば日本人の賃金は上がるのか』

ところが、2022年になって円安が進んだ結果、この状況が大きく変わっている。22年4月中旬のレートで計算すると、韓国との差は7.2%と、大幅に縮まっている。円安がさらに進んで1ドル135円になり、ウォンのレートが変わらないとすれば、日本の一人あたりGDPは、韓国より低くなる。

さきほども述べたように、賃金では、日本はすでに韓国に抜かれている。それだけでなく、「豊かさを示す最も基本的な指標」である一人あたりGDPでも抜かれることになるのだ。

アベノミクスが日本経済にもたらしたもの

台湾との間でも、似たことが起こる。2021年においては、日本の一人あたりGDPは、台湾より21.9%ほど高かった。22年4月中旬のレートでは、この値が9.1%になった。1ドル135円になれば、台湾の値は日本とあまり変わらなくなる。このように、日本が韓国や台湾よりも貧しくなるという事態は、十分あり得ることなのだ。

G7(先進7カ国財務相・中央銀行総裁会議)の中ではどうか?

2021年では、最下位はイタリアで、日本はこれより14.4%高かった。ところが、22年4月のレートでは、この値が6.7%になった。1ドル135円になれば、イタリアのほうが高くなる。すると、日本はG7の中で、最も貧しい国になる。G7は先進国の集まりということになっている。日本がそこにとどまれるかどうかの議論が出てきたとき、日本はどう反論すればよいのだろうか?

アベノミクスが始まる直前の2012年、日本の一人あたりGDPは、アメリカとほとんど変わらなかった。そして、韓国は日本の51.8%、台湾は43.2%でしかなかった(図表2参照)。

一人あたりGDPの推移 出所=『どうすれば日本人の賃金は上がるのか』

それから10年経って、前記のように、この関係は大きく変わったのだ。アメリカの一人あたりGDPは、日本の1.73倍になった。そして、すでに見たように、韓国と台湾の一人あたりGDPが、日本とほぼ同じになっている。アベノミクスがもたらしたものが何であったかを、これほど明確に示しているものはない。

■日本の購買力の水準は1972年と同程度にまで落ちている

企業の時価総額世界ランキングでも、日本のトップであるトヨタ自動車(第41位、2286億ドル)より、台湾の半導体製造会社TSMC(第10位、5053億ドル)や、韓国のサムスン(第18位、3706億ドル)が、いまや上位にある(2022年4月13日現在)。日本の凋落ぶりは明白だ。

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円の実質実効レートは固定為替レート時代に逆戻り国際比較をする場合、異なる通貨表示のデータをどのように換算するかが重要な問題になる。最も分かりやすいのは、その時点の市場為替レートで換算することだ。ただし、これでは、各国での物価上昇率の違いによって生じる購買力の変化を見ることができない。そこで、購買力の変化を見るために、「実質実効為替レート」という指標が用いられる。

BIS(国際決済銀行)が2022年2月に発表した22年1月時点の円の実質実効為替レート(2010年=100)は、67.37となり、1972年6月(67.49)以来の円安水準となった。2022年1月の市場レートは、1ドル=115円程度であった。ところが、その後、さらに円安が進んだ。そして3月には65.26となった。これは、1972年1月の65.03と同程度の水準だ。

この頃、私はアメリカに留学していた。日本での給与が月2万3000円だったのに対して、大学の周辺にあるアパートは、最も安いところで賃料が月100ドル、つまり3万6000円だった。日本円の購買力が低いと、いかに惨めな生活を余儀なくされるか。それを身をもって体験させられた。いまの日本円の購買力が、そのときと同じ水準まで下がってしまったのだということに、改めて驚かざるを得ない。

■「ビッグマック指数」では中国やポーランドに抜かれている

OECDの賃金統計では、国ごとに、つぎの3種類の指標が示されている。第1は、自国通貨建ての名目値。第2は、自国通貨建ての実質値(2020年基準)。第3は、2020年を基準とする実質値を、2020年を基準とする購買力平価で評価した値。

本章の1節で紹介した各国の値は、第3の指標のものだ。ここでは、為替レート変動の直接的な影響は取り除かれている。したがって、本章の最初で見た日本の相対的地位の低下は、為替レートが円安になったことの直接的な結果ではない。

英誌『エコノミスト』が「ビッグマック指数」を発表している。これは、前々項で見た実質実効為替レートと同じようなもので、各国通貨の購買力を表している(数字が低いほど、購買力が低い)。2022年2月に『エコノミスト』誌から発表された数字では、日本は中国に抜かれてしまった。ポーランドにも抜かれた。いまや日本より下位にあるのは、ペルー、パキスタン、レバノン、ベトナムなどといった国だ。

ビッグマック指数」とは、正確にいうと、「『ビッグマック価格がアメリカと等しくなる為替レート』に比べて、現実の為替レートがどれだけ安くなっているか?」を示すものだ。しかし、これは、分かりにくい概念だ。この指数よりも、「ある国のビッグマックが自国通貨建てではいくらか」を見るほうが、直感的に分かりやすい。

■「物価が安い」ことは「賃金が安い」ことと関係している

2022年2月時点での値を実際に計算してみると、つぎのようになる。

日本は390.2円だが、1位のスイスは804円であり、猛烈に高い。3位のアメリカは669.3円で、かなり高い。韓国の439.7円も、日本よりずいぶん高いと感じる。そして、中国が441.7円だ。21年6月には日本より安かったのだが、ついに中国の価格が日本より高くなってしまった。いまや、中国人や韓国人が日本に来ると、「物価が安い国だ」と感じることになる。

以上で述べたことに対して、「物価が安いのは、むしろ良いことではないか」という意見があるかもしれない。「外国に旅行すれば確かに貧しいと感じるかもしれないが、日本にいる限り問題はないだろう」という考えだ。しかし、そうではない。ビッグマックの価格を問題としているのは、それがその国の賃金と関連しているからだ。

ビッグマックが安い国は、賃金も安い場合が多いのである。だから、以上で述べたのは、「日本人の安い賃金では、外国の高いものを買えない」ということなのだ。

ビッグマックの場合には、日本人はわざわざ外国の高いビッグマックを買う必要はない。日本で売られている安いビッグマックを買えばよい。しかし、日本で生産されていないために外国から輸入しなければならないものも多い。こうしたものについては、高いものを買わなくてはならない。

■日本円でのiPhoneの価格はこの10年で約3倍に上昇している

それを印象的な形で示しているのが、iPhoneだ。

2021年9月に発表されたiPhone13には、約19万円のものもある。ずいぶん高いと感じる。原油も同じだ。日本は輸入せざるを得ないから、iPhoneと同じことで、高い価格であっても買わなければならない。最近のようにドル建ての原油価格が上昇すると、その影響を、アメリカ人よりも韓国人よりも、そして中国人よりも、日本人が数段強く受けることになる。

われわれは、いまiPhoneを「ずいぶん高い」と感じる。しかし、こう感じるのは、昔からのことではない。しばらく前まで、さほど高いとは感じなかった。実際、日本円でのiPhoneの価格は、この10年で約3倍に上昇しているのである。iPhoneだけでない。10年前には、日本人は、一般に外国のものを安いと感じていた。

■金融緩和による円安の影響で、日本人の購買力は低下してしまった

もう一度ビッグマックに戻って、2012年2月の数字を見ると、つぎのとおりだ。日本のビッグマック指数はマイナス0.9だった。円表示のビッグマックの価格で見ると、日本が320.2円だったのに対して、アメリカが323.1円だった。このように、ほとんど差がなかった。

野口悠紀雄『どうすれば日本人の賃金は上がるのか』(日経プレミアシリーズ)

韓国は245.9円で、日本よりだいぶ安かった。中国は187.7円と、日本の6割にもならなかった。この頃であれば、日本人は、韓国に旅行して買い物を楽しむことができただろう。中国に行けば、もっと安いと感じたはずだ。しかし、いまや、それはできなくなってしまった。

さきほど、賃金や一人あたりGDPで日本の地位が下がったのはアベノミクスの期間だったと述べた。ここで述べた変化も、アベノミクスの期間に起きた。日本で賃金が上がらず、外国では上がったので、本来であれば為替レートが円高になって、これを調整すべきだった。ところが、異次元金融緩和が導入されて円安が進んだため、日本人の購買力が低下してしまったのである。

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野口 悠紀雄(のぐち・ゆきお)
一橋大学名誉教授
1940年東京生まれ。63年東京大学工学部卒業、64年大蔵省入省、72年エール大学Ph.D.(経済学博士号)を取得。一橋大学教授、東京大学教授、スタンフォード大学客員教授、早稲田大学大学院ファイナンス研究科教授、早稲田大学ビジネス・ファイナンス研究センター顧問を歴任。一橋大学名誉教授。専攻はファイナンス理論、日本経済論。著書に『「超」整理法』『「超」文章法』(ともに中公新書)、『財政危機の構造』(東洋経済新報社)、『バブルの経済学』(日本経済新聞社)、『日本が先進国から脱落する日』(プレジデント社)ほか多数。
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(一橋大学名誉教授 野口 悠紀雄)