純丘曜彰 教授博士 / 大阪芸術大学

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おそらく哲学の本を読んでいて、もっともわかりにくいのが、ライプニッツのモナドロジーだろう。ほとんどの著者が、よくわかっていないまま、ライプニッツの語句だけを抜き書きするから、読者がわかるわけがあるまい。これを理解するには、当時の学術背景、その後の理論展開を知らなければならない。

アリストテレスは 自然は真空を嫌う、と言った。つまり、宇宙に真空があれば、そこはなんらかの物質で埋められる。それゆえ、宇宙でさえ、透明な物質、エーテルで満たされている、と考えた。そして、彼の充満説は、中世、そして近世にも引き継がれた。デカルトは、さらに厄介で、この充満説に神の全能説と組み合わせたものだから、全能の神はどんな粒子も、したがってどんな大きさも、無限に小さく分割できる、ということになった。この考えに沿って、17世紀半ば、ニュートンとライプニッツはほぼ同時に微積分法を発明し、どちらが先かで、激しく争った。

しかし、デカルトと同じフランスの科学者ガッサンディは、古代エピクロスの理論を復活させ、宇宙は、不可分の粒子、アトムの組み合わせと真空で構成されている、と主張して、デカルトを批判。その後のさまざまな化学実験も、その理論の方が正しそうだ、と証明していく。この結果、ニュートンも、宇宙は、むしろ真空空間である、と考えるようになり、「プリンキピア」(1687) において、遠隔引力による宇宙の幾何学的性質を説明した。そして、彼は、デイズム(理神論)として、あらゆるものの位置と動きを知り、自然法則に沿って操作する純粋(なんの物体を含まない)真空空間こそ、神そのものである、と主張した。

一方、ライプニッツは、敵愾心に燃え、ニュートンにおける真空空間と遠隔引力を否定するために、アリストテレス・デカルトの充満説の方を放棄してしまう。彼によれば、宇宙は一種の秩序にすぎず、距離によってではなく、離散的なモナドの集合によって構成されている。たしかにモナドは化学的なアトムと同しよう分割できないが体積も無く、粒子ではない。つまり、それらは、独立した力を持つ点にすぎない。そして、それらは、マールブランシュやバークリーの理論のように、神がイメージする同じ世界を記憶し、それぞれがそれを反映することで、独立して自分自身を表現し、こうして、相互関係無しに、あたかも協力し合い、遠隔力があるかのように見える。彼はこの現象を予定調和と呼んだ。

現代の我々は、宇宙というと、物理的な距離空間を想定しがちだが、カントが言うように、それはまさに我々側の思弁的な想定であって、一つの視野に収まらない世界に関しては、じつはその中の物事の距離も実感できていない。たとえば、東京と大阪の距離も、なんとなく時間的に知っているだけで、物理的な距離としては、まったくの当て推量だろう。そして、よく知っているつもりの時間的な距離にしても、我々は異なる時刻に同時には存在しえないがゆえに、むしろさっきと今の時計の変化、それどころか、東京からどのあたりまで来たか、で、推察することしかできない。

なぜライプニッツのモナドロジーが重要か、と言うと、それが積極的にユークリッド・ニュートン的な絶対距離空間の前提をとっぱずしてしまったから。宇宙は、物事の秩序にすぎない。国際線で世界を飛び回るのに、成田が東京か千葉かなど問題にならない。それどころか、乗ったら、途中、どういう航路で飛ぶのかすら知らないし、知る必要も無い。このような、点と点の秩序だけからなるライプニッツの宇宙観、モナドロジーは、カントの時空間の主観論、そして、物理学の相対性理論において、ニュートンの絶対距離空間と並ぶほどの意味を持つに至った。

このモナドロジーから発展した数学理論を、トポロジー(位相幾何学)と言う。とはいえ、ある不勉強な数学史学者が、トポロジーは距離の捨象だ、などと言っていたが、それでは話にならない。絶対座標という総体的な距離空間を否定するだけで、トポロジーは、近傍だの、コンパクトだの、むしろ根本から「距離」概念無しには成り立たない。ただ、「距離」を多くの点の多重的な集合(集合の集合)とすることで、いいかげんなまま(実測無しに)ほっておく、というだけのこと。

しかしまた、モナドロジーがトポロジーに解消された、というのも、正しくない。というのも、トポロジーは点の集合論だが、ライプニッツのモナドは、独立の意志があり、実際に「力」を持っている。ある意味では、点よりベクトルに似ている。しかし、もちろん、モナドの力の方向、発現は、ベクトルのように、その空間内に限定されない。むしろ、宇宙がモナドの秩序であることにおいて、モナドの変化は、宇宙をも変化させる。

この意味で、モナドロジーがもっとも身近な分野は、経済学や社会学のミクロ視点だろう。考察の粒度を個人にまで落とし込むとき、それはモナドになる。マクロ視点だと、いろいろな内情が総和において相殺され、視野から消滅してしまうが、個人個々の意志や行動をつぶさに見て、それを積み上げていくとき、マクロの中にうごめく圧力、そしてマクロをも変革する破局的な動きが見える。

すでにジョン・ロックが諸個人からマクロ的な政権を樹立する社会契約論、そして、それを転覆させる革命是認論を展開していたが、カントが主観に実践理性というモナド的な意志と行動を与えることによって、ドイツ観念論として、革命の時代に、フィヒテ、シェリンク、ヘーゲル、そしてマルクスと、ミクロとマクロの力のせめぎ合いが論じられるようになった。

大所高所に立つ、とか、大局を見る、とかいうと聞こえがいいが、おそらくそれではその内部にうごめく圧力の高まりや、それらが引き起こす次の破局的な変革を読み取れないのではないか。昨今の、漫然たる日本の経済政策、企業の経営方針を見るにつけ、もっと繊細にモナドロジー的な分析考察を行うことで、先を読むことが求められるのではないか、と思う。