増沢 隆太 / 株式会社RMロンドンパートナーズ

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・危機対応の最大の敵「あってはならない」
危機は必ず起こるもの。これこそが危機対応の大原則です。しかし日本人は根性論が大好き。

なのでこのような事態では必ず;
「(危機は)あってはならない」「起こってはいけないことが起こってしまった」と、要するに危機対応をしていなかったと、自ら認めるコメントが発せられます。

山口県の町役場で、恐ろしいほどの危機管理の欠如によって引き起こされた誤送金事件。こんな大事件に続いてまたまた起きたのが尼崎市の情報処理を請負った大企業が業務を下請けに丸投げし、その下請けがさらに下請け・・・結局作業をしていた最下請会社の担当者であるらしいという事件。

責任はどこにあるのでしょうか。

・トラブルの責任とコスト
すべてトップにあります。これは揺るぎない事実であり、この責任の所在を日本風にウヤムヤにすることで、次の危機への対応の機会をつぶしているのです。トラブルがあればそれをしっかり分析し、原因究明から対応策まで取れれば、トラブルは黄金の教訓として次の機会に生きるのです。

危機管理において、責任者が責任を取ることは絶対に欠かせません。
「そんなことまでいちいち経営者は預かり知らぬこと」で済ませた結果が、尼崎市USB事件のようなお粗末すぎる情報漏洩事件になってしまったといえます。
トップの進退が懸かった重大な責務を、いつの間にか危機感覚が麻痺した結果、トップ進退まで影響があるリスクを忘れてしまったことこそが責任です。

また「そんな情報管理にコストをさらにかけられない」というコストを理由とする言い訳もあります。
だから、その危機対応リスクを含めてコストなのです。
それを負えないのであれば、「危機は絶対起こらない」という妄言に基づいたコスト算定しかしていなかったことを証明していることになります。

クライアント情報を管理することは当然として、今回の事件のようにそれが一度漏洩した場合の計り知れない損害・被害を計算できていなかったとしかいえないでしょう。

・究極の危機負担は原発
究極のコスト負担は原発です。東日本震災が起こるまで、私も原発が最も効率的電力源であるとの宣伝を信じていました。電力不足対応が必要なことに何も異議はありませんが、原発事故時の激烈なコスト負担はなぜ無かったことになっているのでしょうか。

気合いがあれば原発事故は二度と起きないのでしょうか?

原子力発電という科学の粋を集めた技術が、気合いで管理されるとしか思えない現状には大いに疑問を覚えます。原発に反対なのではなく、その危機管理コスト含めた発電コスト計算について、誰も触れないことに疑問だといっています。

・タライ回しの稟議という武器
お役所仕事の典型ともいえる、稟議書にズラリとならんだハンコ。平時においては何の問題もなくまわる単なる儀式ですが、一度こうした事件が起これば、稟議への押印は明確な責任のリストとなります。

山口誤振込事件も、あの巨大な金額から推定して、最後は町長自ら承認したはずです。ビプロジー社が尼崎市から案件受注した際、社内でGoを出すには最低でも記者会見した関西支社長レベルの承認が要るはずです。そこにハンコを着いた人が責任者なのです。

「ハンコついといて知らんとは言えん」とナニワ金融道のセリフのようですが、真理だと思います。
責任追及で痛い目をしてこそ、初めて危機を我がこととして実感できます。

尚、どちらの事件も実際にやらかした当人の責任ですが、これはどこまでその責務を認識していたかによって区別されなければなりません。
単にフロッピーを銀行まで運んだだけの担当者には、基本的に責任はないでしょう。単にデータ打ち込み作業だけを指示されただけの担当者にも、情報管理義務が説明されていなかったなら(これはやや考えにくいですが)責任はありません。

そうではなく、両事件ともにその業務において、自らの意思を持って明確に振込指示までしたのであれば、個人情報取扱いについて指示指導を受けていたのであれば、担当者の重大な責任となります。それであっても管理者は、さらにその上を行く責任があり、そうした暴走を防ぐ措置を取らなかった責任があるのです。

指示した人物は、「常識でわかれ」ではなく、こうした巨大なリスクを含んだ作業を指示する際、自己保身含め明確な指示とリスク対応をしなければなりません。

お役所仕事だった稟議のハンコ。この動かぬ証拠をタテに、ぜひ徹底的に責任を追及し、究極の責任者であるトップ、社長、市長・町長まで、重大な責任を負うことで、組織の危機管理意識が醸成されると思います。