※この記事は2019年04月25日にBLOGOSで公開されたものです

この4月、政治の世界では4年に1度の大きなイベントである「統一地方選挙」が実施され、全国で首長や議会の選挙が一斉に行われた。また月の初めには新元号が発表され、大きな注目を集めた。田原総一朗さんはどう見ているのか、話を聞いた。【田野幸伸・亀松太郎】

地方の有権者はあきらめている?

今回の統一地方選の特徴の一つは、投票率が非常に低かったことだ。

前半戦の41道府県議選の投票率は44.08%で過去最低となった。後半戦も低調で、59市長選の投票率は47.50%とやはり過去最低だった。同様に、283市議選や東京特別区の20区議選も投票率は40%台で過去最低を記録した。

そもそも立候補者の数が少なくて、無投票になった選挙区も多かった。

いまの日本社会の大きな課題は人口減少と少子高齢化だ。そのダメージを一番受けるのは地方で、地方自治体をどう運営するかは重要な問題のはずである。若い世代が大都市へ流出してしまい、過疎化が進む地方自治体をどう活性化するのか。そこが大問題だ。

ところが、地方自治体の選挙の投票率は低い。もしかすると、地方自治体の有権者があきらめてしまっているのではないか。どうすれば地方を活性化できるのか、その対策を首長や議会に期待していないのではないか。

その一つの背景として、国政の動きも関係している。自民党は地方自治体の活性化に熱心ではないのではないか。そのようにも見えるのだ。本来ならば、地方活性化のための法律をどんどん作るべきなのに、そうなっていない。

なぜ、国会での動きが鈍いのか。

これは勘ぐりと言えるかもしれないが、地方創生担当の片山さつき大臣の問題がある。国会で地方活性化の問題を進めようとすると、片山大臣のスキャンダルが出てきてしまう。それを恐れているのではないか。そう見えるほど、動きが鈍い。

元号とは何を示すものなのか?

今月初めには、菅官房長官によって新元号「令和」が発表された。

この令和という元号。最初は違和感があった。命令の「令」という漢字が使われていて、自由や解放とは逆の意味なのではないか、と。

その後、「令和」というのは、万葉集の梅花の歌の序文からとったもので、「令」という漢字には、厳しい季節に梅の花が咲くことを讃え、喜ぶという意味があると知って、ああそうなのかと思った。

しかし、元号については、根本的な部分で疑問がある。それは、そもそも元号って本当に必要なのか、ということだ。

いま僕は、日常生活で「平成」という元号を使うことはほとんどない。政治や経済の話題を語るときもそうだ。たとえば、東西冷戦が終わったのは1989年、バブル景気が弾けたのは1991年、福島の原発事故は2011年、トランプ大統領の就任は2017年といったように、西暦で表現するのが通常だ。

最初の元号といえば「大化」だが、天皇を中心にした政治体制が作られたときに作られた。つまり、元号は天皇中心の国を治めるための記号だった。明治維新後の明治・大正・昭和は天皇一世一元となり、天皇と元号の結びつきがより強まったといえる。

しかし戦後の新憲法のもとで、主権は国民に移った。そうなると、元号とはいったい何を示すものなのかという問題が浮上してくるはずだ。

我々にとって、元号は本当に必要なのだろうか。

僕は必ずしも元号に反対ではないが、新元号の制定にあたって、そういう議論があっても良かったのではないかと思う。