札幌・吹奏楽部パワハラ自殺訴訟 被害者の同級生が語る後悔と学校への違和感 - 渋井哲也
※この記事は2019年04月19日にBLOGOSで公開されたものです
2013年3月、北海道立高校の1年、悠太(享年16)が地下鉄の電車にはねられて死亡した。所属していた吹奏楽部の顧問によるパワハラを苦にして自殺したとして、母親が北海道を訴えている裁判が、4月25日、判決を迎える。この訴訟では、悠太の同級生が証言をした。学校の教員の指導をめぐっての訴訟で同級生が証言するのは珍しい。なぜ、証言したのかを含めて、筆者は、同級生に取材することができた。そこには同級生としての後悔の思いと、学校の事後対応が間違っているとの認識があった。
この訴訟では同級生の生徒は「生徒C」と呼ばれていたため、ここでも同様の記述をする。
訴状などによると、悠太は13年1月、他の部員との間でメールをめぐりトラブルを起こしていた。この時、お互いが言いすぎたものになっていたが、指導を受けたのは悠太のみ。一方の相手は指導されなかった。その後、部内で別の問題が起き、3月2日、再び、悠太のみが指導された。翌日は日曜日だったが、悠太は部活のために登校したものの部活の練習には参加せず、地下鉄の駅に行って自殺した。
争点は、顧問の行為がパワハラかどうか、自殺との因果関係、自殺の予見可能性、安全配慮義務、事後対応の違法性だ。
生徒Cは昨年8月の尋問で証言した。なぜ証言しようと思ったのか。
「顧問も“自分が悪い”という自覚を持ち、学校側も(遺族に見せると言い、悠太の自殺後に取ったアンケートを)遺族に渡していたら、関わらないでいいかな、と思っていたんです。でも、うやむや。裁判がこのまま収束するのは嫌でした。俺が知っていることを話せて、真実に近づけるなら、それがいい。俺の視点ですが、(学校や顧問は)対応は間違っている。対応が過ちだったという自覚を持って、反省をしているところを見せて欲しいと思ったんです」
吹奏楽部には細かな部則があった。恋愛やメール禁止などが代表的なものだった。ルールは絶対、守らないといけないものだったのか。
「絶対ダメです。ちゃんと真面目にやらないといけない。そう思っていました。自分の性格としてもそうですね。ただ。小学校のころは人目を気にしないで、怒られることがあったんです。でも、中学校のときは目立たないようにしていました。高校受験を意識したことから問題を起こさないようにしていました。当時も変に真面目でした」
生徒Cは悠太との関係で気になることがあったのか?
「真意はわからないですが、悠太くんからは『顧問は全然わかってくれない』という愚痴を聞いていました。でも、『音楽が好きだから吹奏楽部を続けている』と。顧問は、嫌いな人をやめさせるような指導は(直接的には)していないですが、“こういう生徒にしよう”というものがあったんです。なんというか、(よく言えば)更生というのか、(悪く言えば)洗脳というのか…」
1度目のトラブルで同級生部員が悠太を怖いと思うようになった。このときの生徒Bとのメールのやりとりで、悠太が送ったメールの中に<殺す>という表現があったことも大きいかもしれない。しかし、顧問は尋問で、「売り言葉に買い言葉」としか思っていなかったとの証言をしている。どっちもどっちというなら、学校組織としての指導は両者になされるべきだが、悠太だけの指導になった。
一方、生徒Cは尋問で「『今回(の市民吹奏楽祭に)、出なかったのは休みがちで練習をしてないので、同じ土俵に立つ資格がないと思っていた。でも、できることをしたい。次に何をしたらいいのかの課題を、聞く側の立場で、アドバイスをしたい』と言っていた」と証言した。
「顧問は形だけは生徒の意見を聞く。審判は顧問が下す。まず、顧問は外堀を埋めるんです。直接は何も言いません。それが当たり前になっていました。演奏に関しては部長が、それ以外のことは顧問が部長を通じて言っていました」
メールはトラブルになるような内容だったのだろうか?
「悠太くんは全員にメールを送ったんです。細かくは読んでいないのですが、“今後も頑張っていこう”とあったので、そう思った。おれは素直に“ありがとう”と思ったんです。しかし、細かな表現で生徒Bはイライラをしていました。問題になったやりとりをトラブルの相手の生徒Bが、悠太くんからのメールをLINEに貼り付けました。そして、生徒Bが悠太くんに送ろうとしようとした内容を貼り付けた。グループの中の3、4人が生徒Bの見方に賛同した。感情的になっていたんだなと思います」
ちなみに、生徒Bはどんな返信をしようとしたのか。生徒Cは尋問で「『もう来るな』『死ね』という暴言もかなり入っていた。周囲から『さすがにやめたほうがいい』という声が上がった。そのため、LINEの中で『送らなかった』と言っていた」と証言している。
そのメールを巡ったトラブルが起き、学校から悠太は指導されることになる。ただし、顧問や生徒指導部長は、そのやりとりを把握していないことが証人尋問で明らかになった。
「そんなことで怒られるとは思っていなかった。顧問は一年生全員を怒った。驚きの連続だった。このことでLINEのグループは消滅しました。その後のムードは地獄でした。一切口を出せなくなり、しゃべれなくなりました。2、3年生だってLINEをしていたのに、顧問には『やっていません』と言っていたんです。なんで俺らだけ怒られるんだろう」
2回目の“指導”は、悠太の恋愛に関係している。部則では「部内恋愛禁止」だったが、悠太は1回目の指導後、より関係性を深めようとして秘密を打ち明けた。その一つが、自分がしていた部内恋愛だった。二人を信頼していたためだろう。しかし、そのことを生徒BとCは顧問に伝える。なぜそのような行動を取ったのだろうか?
「当時は変に真面目な性格で、問題を起こしたくない心理でした。自分たちの代は何をしても怒られてしまう。だから怒られないようにしようと。そのためには自分の知っていることを全部言わないといけない。隠していて、明らかになったとしたら、“なんで言わなかったのか”と自分が怒られます。それを避けようとしたのが大きいです。悠太くんがそれで怒られると思っていません。隠すことが何もよりもまずいと思っていたんです」
悠太は自殺する前日、生徒Cの家に行ったが、すれ違いで会えなかった。ただ、一回目の指導で、顧問は、悠太に対しては、最低限の連絡のみで、メールを含めて一切連絡を取ることを禁じた。これにより、悠太は孤立感を深めていた。
「友達は大事にしないといけないのに、(亡くなる)前日に応じることができませんでした。電話をしようとすることもできたんですが、応じて、また問題になったら、自分が悪い、ということになります。だったら、何もしないほうがいい。それで悠太くんが傷つくとかは考えていませんでした。(自殺したと)聞いたときは、“昨日、会わなかったせいだ”と思いました。あのとき聞いてさえいれば、少なくとも亡くなるのが3月3日ではないのではないか。会わないとしても、連絡を取っていれば、結果は違っていたんじゃないかなと思ったりします。後悔しかない」
自殺することがわかる直前、生徒Cは、顧問に対して「家に来たら会ってもいいのでしょうか?と聞いている。顧問は「訪問に来ても、居留守を使え。連絡が来ても応じるな。関わったら危険な目に遭う。一切、関わるな」と答えたという。悠太をさらに孤立させる態度だった。
裁判では顧問の証人尋問も傍聴した。
「(証言を聞いていて)顧問は、(亡くなった悠太くんのことを)どうでもいいんだな、と感じた。顧問の中では、“あいつが勝手にやったことだ”“関係ない”って思っているんだろう。質問に対して“自分は(悠太くんの死に)関わっていませんよ”という感じだった。その質問の場のために、時間をかけて用意してきた言葉ではなかったと思う。(顧問には)人間的な部分を見せて欲しかった」
亡くなった直後、生徒Cは遺族に会いに行こうとしたものの、学校側に止められた。遺族と会えたのは卒業後だ。悠太の死後2年が経っていた。
「最初は義務でした。行かなければならないと思ったんです。ただ、抵抗はありました。前日のことで、罪悪感もあるし。それが辛いというのはありましたが、遺族から責められるとしても、自分の中では解決しません。それは当たり前だと思っていたんです。前日、きちんと対応してないのは憎まれるべきだと思っていたんです。裁判も、そのことを踏まえないと、ただの善意では関われないです。後悔だけはしたくないです。その意味では、今回の証言は、自分のためでもあります」
悠太が亡くなった当時から、生徒Cには自責の念があることを取材で語った。音楽を嫌いになり、部をやめることも考えた。しかし、部活を辞めずに続けた。「先生のことは信用できない。とりあえず、楽器を吹きに行った。続けたのは意地だった」と語った。悠太と他の部員の間で連絡をとらせないようにし、友人関係を奪った顧問。生徒Cも、こうしたパワハラの被害者の一人だ。今では、遺族との対話を続け、悠太の死に向き合い、証言台にも立った。できることはした。遺族には気持ちは十分に伝わったはずだ。