純丘曜彰 教授博士 / 大阪芸術大学

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 世界は「悪」によって滅びるのではない。憎しみが人を悪に変え、世界を滅ぼす。みずからを「正義」と信じ、人を憎む者の存在は、まさに「悪」だ。

 きっかけは、言葉か、暴力か、それとも、たんなる誤解や事故だったのか、わからない。いずれにせよ、それらは、あってはならないものだ。しかし、だからといって、ひとがあってはならなかったものを無くそうとしても、それはひとの権能を越える。いかにあってはならなかったものであろうと、それはもはや厳然とあり、最初から無かったかのように、消し去ることはできない。ただ傷口を拡げるだけだ。

 存在は、人間を越える。事故や病気、災害、そして、ひとの「悪」であろうと、人間は、あるものに対して、右往左往しながら、その受け入れ方を模索することしかできない。もちろん、人は、これらをそれ以上に大きくならないように努める。そしてまた、その傷口を早く癒やすべく最善を尽くす。しかし、それはそれでまた、ひとつの受け入れ方だ。

 だが、存在を受け入れることを拒み、無いかのように振る舞ってみたところで、無くなりはしない。やはり、それはそこにある。むしろ、目を背けている間に、それは大きくなる。そして、やがて破裂して、目を背けようもないほど、我々の全身を取り囲み、我々をその存在の中に引きずり込んで、その存在と一体化させてしまう。

 まして、厳然たる存在を受け入れず、それをみずからの力で無みしようとすれば、みずからがそれ以上の恐ろしい存在と成り果てる。憎しみだ。そして、その憎しみそのものととなった自分の存在は、おのれの権能の限度を逸脱させ、みずからを費やし蝕み、ついには押し潰してしまう。

 憎しみに囚われたひとは、その憎しみの対象である存在以上に、恐るべき存在そのものと化す。そのひとは、みずからと同じ憎しみを抱かない人々をも「悪」と決めつけ、憎む。そして、同じ憎しみを抱く人々とともに、同じ憎しみを抱かない人々を攻撃して無みしようとする。つまり、周囲にとってみれば、もともと彼らが「悪」としたもの以上に、彼らの方が身近で厄介な存在だ。やむなくそれに従えば、彼らはますます増長し、さらに周囲を攻撃して、敵か、味方かに二分し、たがいに争わせる。その争いの上に乗って、彼らはまるで善悪を判じる神になったかのようだ。

 彼らに世界を滅ぼさせないために、憎しみに我を忘れ、憎しみを人に煽って、みずから滅びていく者たちを憐れもう。そして、せめて我々は、憎しみの徴発を、まさに憎しみの徴発そのものとして静かに受け入れよう。たしかに、彼らの憎しみは、厳然とそこにある。だが、それ以上でも、それ以下でもなく、ましてそれは、けっして我々自身の憎しみではない。そして、いつかわかる。存在は、ひとにして思い上がった偽の「神々」の専横を許さない。憎しみで争う者たち、憎しみを人に煽る者たちは、いずれみずからの罪の重さに、みずからの存在を失う。