日本ハム・斎藤佑樹【写真:石川加奈子】

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プロ生活11年、次第に増えた2軍での日々

 日本ハムの斎藤佑樹投手が1日、今季限りでの現役引退を発表した。夏の甲子園で再試合の末の優勝、さらに“ハンカチ王子”として注目された早実高時代のイメージのまま、2011年に日本ハムへ入団してからも大フィーバーを起こした。どこに行っても人に囲まれ、あらゆる行動が世間に報じられた。

 しかし記憶にあるのは、そんな喧騒を離れた時の斎藤だ。自分はどんな投手なのかを模索し、もがいていた。薄暗い屋内練習場で、ネットに向かってボールを投げる姿、炎天下の2軍戦で打たれる姿、そして復活勝利を挙げた日の嬉しそうな姿。様々な表情を思い出す。

 私の前職はスポーツ紙の記者だった。2軍本拠地の千葉・鎌ケ谷にいる斎藤……いや、佑ちゃんを見守ることが多かった。皮肉なもので、ケガや不振で1軍の出番が減り始めると、接触する機会が増えた。その頃はもう、周りに大勢の報道陣はいなかった。

 いつも、問いかけに「はい、きょうは何ですか?」と耳を傾けてくれた。決して快い質問ばかりではなかっただろう。一度、聞いたことがある。高校時代の自分は、今や重荷ではないのかと。“ハンカチ王子”にならなかった自分の方が良かったのではないのかと。

「それはないですよ。こうして未だに話を聞いてもらえるのだって、あの夏があったからです。何ならハンカチを使ったからじゃないですか」

 即答だった。野球への愛と感謝は、どこまでも深かった。

右肩、右肘の致命的な故障…明るい道しるべになりたかった

 プロでの斎藤は、1年目がピークだったと言えるのだろう。6勝6敗、防御率も2.69。成績が大きく下降し始めるのは2年目の後半からだ。やがて右肩関節唇の損傷と診断され、2軍で顔を合わせる機会が増えていった。

 復帰を目指し、短い距離でネットにボールを投げる作業が、延々と続いた。肩の痛まない、正しいフォームで投げられるようにするためだった。暑い日も寒い日も。

 そんな時に聞いた。肩を痛めていると分かってから「関節唇損傷」と何度もインターネットで検索したのだという。明確な治癒例はなかった。怖くなった。それでも「自分が治れば、それが検索してもらえるようになりますよね」と明るい表情で言った。もがく姿を、隠すこともできただろうが、斎藤はそうはしなかった。

 昨年故障した右肘もそうだ。靭帯を繋ぐトミー・ジョン手術の道は選ばなかった。自分に残された時間は少ないという以上に、後に続く野球選手たちの道しるべになりたかったのではないだろうか。保存療法を選び、リハビリ開始から約半年でマウンドに戻って来た。正直、思ったようなボールは投げられなかったことだろう。それでもこれほど短期間で、プロの実戦に戻って来たこと自体が1つの明るい例となる。

 斎藤は引退発表にあたって「ご期待に沿うような成績を残すことができませんでしたが、最後まで応援してくださったファンの方々、本当にありがとうございました」と球団からコメントを出した。「期待に沿う成績」は、途中から意味を変えていたはずだ。国民的ヒーローが見せたもがき苦しむ姿は、未来の野球選手にとっての大きな財産となる。(羽鳥慶太 / Keita Hatori)