SNSで話題の不気味映像『コリアタウン殺人事件』 狂っていく撮影者…虚実の境目の溶け方がマジっぽい

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監督も出演者も一切不明! 謎のファウンド・フッテージ


『コリアタウン殺人事件』は、冒頭からわかりづらい。どうやらスマホかなにかで撮影されたらしい、ガビガビの画質。手で持って撮っているので、画面がガタガタ揺れる。そこに映るのは、夜中に発生したなんらかの犯罪の現場、そして翌朝の路上に残る血痕。どうやらロサンゼルスに住む撮影者の家の近くのコリアタウンで、タエ・クゥアン・サンという男が自分の妻に殺される事件が発生したらしい。撮影者の男は、それを自分が「調査」するという。

しかしその「調査」は、どうにも危なっかしい。冒頭で彼は事件のあらましを話すのだが、その話の内容というのがどうにも分かりづらい。理解できないわけではないのだが、言いたいことをワーッと話しまくるだけの人の話に特有の、絶妙な理解しにくさがある。調査といっても家の近所を歩き回り、行き当たりばったりにその辺の人に話しかけ、「事件のこと、なんか知ってる?」とか質問するだけ。暇に任せてプラプラしてるだけのようにも見えてくる。

だが、撮影者の男は「調査」にのめり込み、ついには仕事をクビになる。同居していると思しきパートナーの女性にも愛想をつかされ、それとともにより強く調査にのめり込むという悪循環にハマっていくことに……。しまいには聞き込みの最中に「あんた大丈夫か?」と逆に質問され、壁の落書きや何度も路上で目にするキリスト教の牧師の姿にも「意味」を見出すようになる。

ここまでなら、「なるほど、この映画はミイラ取りがミイラになっていくまでの過程を描いたものなのだな」と納得もいく。しかし、『コリアタウン殺人事件』が恐ろしいのはここからである。「タエ・クゥアン・サンのことを知っている」と話すホームレスの老人が登場して以降、映画はどんどん危険な方向に。事件の鍵となる謎のガレージ、そしてそこに突入しようとした撮影者の男。どんどんのっぴきならないことになっていく画面を、我々はただやきもきしながら見ていることしかできない。

『コリアタウン殺人事件』は、いわゆるファウンド・フッテージものの映画である。「とある場所で見つかった、よくわからない記録映像です」という体裁をとったものであり、その体裁ゆえに撮影に使う機材や撮影環境、出演者などはロークオリティでも全然OK。むしろちょっとガタガタしていた方が生々しく見えるというジャンルであり、それゆえに低予算で作ることができるという利点がある。1999年の『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』のヒット以降この手の映画は量産されまくったが、『コリアタウン殺人事件』の不気味さは頭二つほど抜きん出ている。

まず関係者の名前が全部未公開。監督も出演者の名前も全て不明。しかも登場するコリアタウンでの事件は、2017年に実際に発生したものだという。街中で無遠慮に携帯を向けられた人たちのリアクションも生々しいし、主人公である撮影者の男の喋り方もそれっぽい(街中で大声の独り言を言っている人を見かけたことがある人なら、なんとなくわかると思う)。虚実の境目の溶け方が、なんだかマジっぽいのである。


その虚実の溶け方で言えば、デジタル画像のイヤさ具合というのがある。この映画では度々、デジカメで撮影した画像をスマホの動画撮影機能で大写しにしたものが映り込む。そもそも荒い画質のものを、さらにあまり高性能とは言えない機材で撮影し直しているわけで、その画面はガサガサに荒れているのだ。写真だけではなく、夜中に撮影されたシーンはやっぱり画面が荒れる。

こういったガサガサした画面の手触りによって、デジタル撮影された画面にも関わらず、まるで昭和の未解決事件の記録写真のような不穏さが漂っているのだ。我々のよく知っている機材で、現代の町並みや人々を撮影しているのに、なぜか漂う強烈な不穏さによって、虚実が入り混じったストーリーへと有無を言わさず引きずり込まれるのである。

極めて現代的な手触りこそが、恐怖の源泉なのだ


『コリアタウン殺人事件』を見ていて思い出したのが、2018年の映画である。この映画もロサンゼルスを舞台にしており、33歳の主人公が隣人の女性の失踪をきっかけに、街に散りばめられた無数の暗号やサインを手掛かりにして彼女の失踪の謎を解こうとする映画だった。どう考えてもそれはインチキや陰謀論の類だろう……と思っていたら、あれよあれよという間に思わぬ展開になっていくところは、『コリアタウン殺人事件』にもよく似ていると思う。

両者の共通点は主人公がなんだか暇そうなところ、そして都市伝説や街のあちこちにあるサインに対して敏感すぎるところである。『アンダー・ザ・シルバーレイク』でも主人公は周囲にドン引きされていたが、『コリアタウン殺人事件』では撮影者の男は「これはもう精神科のお世話になった方がいいのでは……」というところまで追い詰められる。

困るのは、この追い詰められ方が非常に生々しいところだ。おれは精神医療の専門家でもないし、統合失調症などについても詳しくはない。そういう人間が見た時に、「なるほど、彼らには世界がこう見えていたのか……」と納得するようなところがあった。ひとつの事件をトリガーにして、「これらの落書きには意味がある」「路上の牧師は自分のことを見張っている」と常に考えるようになっていく男の姿は、実に生々しい。

例えば、現代において「人しれないジャングルの中に住む、人食い部族の村に行った人間が残したフィルム」という体裁のファウンド・フッテージは成り立たないだろう。なんせあまりにも嘘くさすぎる。「これは本当にあったことかもしれない」という生々しさが売りのジャンルにおいて、これは致命傷といっていい。

その意味で『コリアタウン殺人事件』は、極めて現代的なファウンド・フッテージと言えるだろう。なんせ撮影機材はスマホだし、街中で独り言を呟きながら歩いている人にはよく出くわす。ジャングルに住む人食い部族よりも、よっぽど手触りが生々しい。おまけにこのギミックによって『コリアタウン殺人事件』では、「撮影者の男自身がいつどういう行動に出るか全く読めなくなる」というオマケまでついてきた。

というわけで、『コリアタウン殺人事件』は「現代においてファウンド・フッテージのホラーを成立させるためにはどうしたらいいか」を練りに練った作品だということができるだろう。ただ、この結論の前提は、あくまでこの映画がフィクションであるという点にある。もしかしたら、これはマジで本当に起こった出来事の映像がそのままアマゾンプライムビデオに放り出されているのかもしれない。そんな虚実の溶け方を、存分に味わってほしい。
(しげる)