「ガマンの後に天国がくる」絶頂と転落を繰り返したAV業界の創造主・村西とおるの壮絶人生

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 「ナイスですねぇ」。画面から聞こえる、耳から離れない独特の口調の主。村西とおる、通称「監督」だ。1988年にダイヤモンド映像を創業、AV業界に革命を起こし、年商は最大で100億円。自社ビルも建設した。慶應義塾大学在学中にAVデビュー、東大大学院、日本経済新聞記者を経て作家として活躍中の鈴木涼美も「業界のキングであり創造主」と賛辞を惜しまない。

 そんな世界に名だたるジャパニーズポルノの礎を築いた経営者であり、「7000人ほどの女性を"視認"してきております」と豪語する男の半生とはー。

 1948年、福島県に生まれた村西。一家は傘の行商をして生計を立てており、「食うや食わずの幼少期だった」と振り返る。高校卒業後に上京、洋酒バーのバーテンを手始めに、ホスト、教材セールスマン、英会話教室経営、ゲーム機リース…と、職を転々としながら蓄財に成功した。トレードマークとなっている丁寧な喋り口調も、この時代に身につけたという「カメラの前で話をする時にその向こう側に何万人もいる。だから生意気な言葉はありえない」。

 インベーダーゲームでは大儲けした。「資本金180万円から1年くらいで7億円になった」。そんなある日のこと、夜の新宿・歌舞伎町を歩いていると、ビニールに入った本が目に止まった。それが"ビニ本"との出会いだった。「根がスケベだから今でも忘れてないけど、ドイツの写真集だった。こんなもの売って良いのかと、買ってホテルに戻って、股間の黒塗りをベンジンで消そうとしたら全部消えちゃって(笑)。これ、絶対に自分でやらないといけないと思った」。即断即決した。
 

■「裏本の帝王」からの転落

 1冊およそ1万円のビニ本が飛ぶように売れた時代、1980年、村西は勢いそのままにビニ本チェーン「北大神田書店」を創業。月に5000万円も売り上げ、財を成した。

 怖い出来事に遭うこともあった。「ある時、"家業"の人がやってきて、"儲かってんのか?"って聞かれたから、"めちゃくちゃ忙しいです"と余計なこと言っちゃった。それから2、3日したら、兄貴分が若い衆連れてきて、すっと寄ってきて、何かを突きつけたの。見たらリボルバー式の拳銃。ホテルに連れて行かれて監禁されて」と生々しく証言する。

 日本では1991年にヘアヌードが解禁されたが、「北大神田書店」では非合法にヘア出し写真集を販売していた。「当時フォークランド戦争っていうのがあったので、迷彩服を着せた女性3人を富士の演習場の近くに連れて行って。篠山紀信さんがヘアを解禁したというニュースも『おととい来い』という話だった」と笑う。

 過激なことをやれば売上は伸びるのが必然。「北海道で50店舗弱。日本全国で160店舗」。月商は数億円に達し、いつしか「裏本の帝王」と呼ばれるようになる。

 「モロに写ってるから、捕まるという認識はあった。最初は下着からヘアの感じがちょっと見えるくらいで、たまにパンティーのうえから毛が1本はみ出てる。じゃあ3本出してみよう。じゃあ下着をちょっとずらしてみよう。全部取って手で隠してみよう。片手を外してみよう、じゃあ両手を外してみよう、と、どんどんいっちゃったの」。

 それでも当時は明確な基準がなく、警察が摘発に来ることはなかったことから、村西はさらにエスカレートする。「じゃあ片手で開いてみよう。両手で開いてみよう。ぐいっと開いてみよう。じゃあ(男性器を)添えてみよう。先っちょだけ挿れてみよう」。

 しかし1984年、写真週刊誌『FOCUS』『FRIDAY』の向こうを張って創刊した『スクランブルPHOTO』をめぐって、わいせつ図画販売容疑により逮捕。同誌は廃刊、ビニ本チェーンも解体の憂き目にあった。

 「それまで延べで81店舗くらい捕まっていたが、すぐに別の所で開店させて。いたちごっこ状態だった。札幌の警察署の真隣にビニ本屋さんを作ったら、署の偉い人がやってきて"営業の自由は侵さないけど、真隣はまずい"と言ってきたから、"おととい来い"と突っぱねた」。そこから調べられるようになり、ビニ本店に入った泥棒の実況見分がきっかけで摘発されてしまったのだという。
 

■VHSとβの覇権争いで暗躍!?

 ビニ本から一切身を引き、全財産を失ってしまった村西だが、すぐに復活、今度はビデオに殴り込みをかける。

 「前科者になっちゃったし、また捕まるという恐怖はあるけど生活があるからね。生きていくためにはこの道を追求するしかないと。でも根本的には"何が悪いんだ?"というのがある」。 

 ブームを予測し、カメラマンの加納典明や映画監督の高橋伴明とともにビデオ映画も作っていた村西の下に、どうしても会いたいと言っている人がいるとの情報がもたらされる。なんと、あのビクターの役員だったという。「俗に言う"裏ビデオ"を作ってほしい」という要望に応え、村西が制作したのが、伝説の裏ビデオ『洗濯屋ケンちゃん』だった。

 当時、VHSとβが覇権を争っていた映像媒体市場。「その後、ビクターが何をしたかというと、松下電器グループに持ち込んでコピーしたものをばらまいた。結局、ビデオデッキを買って何をしたいかというと、スケベな映像を見たいんですよ」と喝破する。VHSとβの覇権争いに、村西の裏ビデオが暗躍していたというこのエピソードは、後に漫画「課長 島耕作」にも取り上げられることになる。

 村西が設立した「ダイヤモンド映像」に1991年まで在籍、『新橋アンダーグラウンド』などの著者でもある本橋信宏氏は当時をこう振り返る。「最初に会った時は上下白のスーツを着ていた。映像の経験もないから「パンアップ、パンダウン」などの専門用語の意味もわからない。だから「上に下に」「右に左に」って言ってた(笑)。自身がなんでもやらなくちゃって、男優もやっていた。下町のスタジオで撮影して、結果的にはそれもリアリティがあって火がついた」。
 

■村西が生み出したAVの「定番」

 今やAVの"定番"となっているものも、村西によって生み出された。

 「アダルトビデオに出演する人は右も左もわからない。だから2人きりになって、”お待たせいたしました。私とあなたがいたすところを撮るんですよ"と言うと、"2人きりなら大丈夫"と安心することに気づいたことが"ハメ撮り"の始まり」。

 "駅弁"は、村西が20代のホスト時代の経験が元になっている。「華道の先生の家に招かれて"おもてなし"をした時、私が随分荒々しく"出し入れ"をして。そうしたら"立って"と言われたので、そのまま立ち上がったところ、今度は"歩いて"と言うんだ。さらに"弁当、弁当と言って"と囁かれて…」。20畳ほどの部屋を行ったり来たりする村西が疲れ、ぐったりして柱の方に目をやると、そこには制帽を被った男性の写真が。先生が「あれは私の主人。駅弁売りをしていて。生きている時は、ああして毎晩私を楽しませてくれた」。しかし当初、この経験をAVで披露しようとは思っていなかったという。「みなさんが日常しているセックスを披露しているだけで、ラーメンやそばを食ってるのと一緒。ただ、1本2本ならAVは作れるけど、50本100本作るのはよほどの才能がないと難しい。"かつて人類が相まみえなかった映像を作らなければ"、という強迫観念があった。そこで僕が何を出せるかと思ったら、駅弁があるじゃないかと」。

 「顔面シャワー」の誕生も意外なきっかけで生まれた。「撮影現場に遊びに来ていた刑事さんが"いやー、監督!顔にかかるっていうのは新鮮でいいね"と言う。僕は"こんなのがいいんですか?"と思ってたんだけど、じゃあ全面に押し出したほうがいいかなって。ネーミングはシャワーのようにかかったのが強烈だったから」。

 数々の村西の"発明"について、本橋氏は「ひとつは性をエンタテインメント化したということ。あと笑いを加味した。本来、笑いとセックスって相反するものだったけど、村西監督作品はみんなで見て楽しんじゃう。笑おうよ、という新しい見方もあった」と話す。


■伝説の専属女優たちを次々と手がける

 AV業界に"専属女優"という概念を持ち込んだことも村西の功績だ。中でも黒木香・松坂季実子・桜樹ルイの3人の発掘は、AV業界を世間に認知させる最大の武器にもなった。

 横浜国立大学卒業の才媛にして、16歳から剃ったことのない脇毛を武器に活躍した黒木は、討論番組のパネラーとしても活躍。AV黎明期の傑作と言われる『SMぽいの好き』で地位を不動のものにした。「当時はレンタルショップがほとんどないから。1本1万5000円くらいしたけど、現金書留が山のように来た。それまではレイプとか痴漢とか男が女性を陵辱するという作品が多かった。でも黒木の作品は、男と女の拮抗するセックスの世界を初めて見せた。それがカルチャーショックだったのだろう」。

 松坂は日本人離れした90cmオーバーという巨乳で一世を風靡した。「当時、おっぱいが大きいというのはコンプレックスだった。パッケージ写真を撮る時に、カメラマンが熱っぽく"監督すごいですよ。信じられません"と言う。確かに、見たことないほどの大きさだった。巨乳という文化は彼女から始まった」。

 桜樹はキュートなルックスでアイドル予備軍からAV女優に転身。毎回1万本以上を売り上げ、"AVクイーン"とも呼ばれた。村西は桜樹を「一番日本人から愛されたAV女優」と評する。

 自身が発掘した女優たちが絶大な人気を誇る中、村西は"悪い虫"がつかないよう、自社ビルに住まわせていた。「カネはあまりあまるほど持っていた。10億円の豪邸に1億円のロールスロイスに3億円のピンクダイヤモンド…。松坂季実子ちゃんなんて、毎月1億円以上儲けさせてくれてるから、買い物行くぞ〜って」。
 

■「自己破産はしない」

 会社の規模は年商100億円、実に市場の35%を握っていた。「みんな私のやったことを右に倣えで。いまも脈々と流れている」。

 やがて量産したAVを再利用して儲けられないかと考えるようになった村西。当時発足間際だった衛星放送事業に目をつける。「私と孫正義さんが手を挙げたが、三菱商事は私を選んでくれた。当時は孫さんなんて『おととい来い』レベルだった。私に負けてるんだから。それなのに、どうして今こうなっちゃったのか…(笑)」。

 しかし、村西の「空からスケベが降ってくる」という構想実現のためには、電波料として月2億5000万円、設備投資も含め20億円もの費用を要した。「それで8カ月やったんですが、1人5000円の会費を集めたんだけど追いつかない」。衛星放送への投資が重荷になっただけではなく、バブルが崩壊したことも追い打ちとなり、保有資産の価値も大きく減少。1992年におよそ50億円の負債を抱え倒産する。待っていたのは借金地獄だった。

 しかし、資産を売り払うなどし、20年ほどかけて50億円あまりの借金を完済するに至る。

 「自己破産は一度もしてない。自分の中に"自己破産"というルールを持っちゃうと、"こいつは自己破産して逃げちゃう"と、信用を失うだろうなと思った。ある人にとっては自己破産するのも手でしょう。でも踏ん張って少しずつ返しているとそれが信用になっていく。負ける時もあるし勝つ時もある。借金を苦にして死ぬのは愚の骨頂。僕はいつの間にか"地上最強に逆境に強い男"と言われるようになった。だから返済し終わった後、すぐにお金が借りられた」。
 

■「ガマンの後に天国がくる」

 現在はコンテンツ事業やブログビジネスで活動中の村西。若者へのメッセージは「セックスは人生だ。ガマンの後に天国がくる」。

 「どんな苦しみだって、過ぎ去ってしまえば思い出になる。耐えられないことは何もない。セックスと同じ!我慢して我慢して天国が来る。ネガティブになって生きる必要はない」。

 四半世紀以上にわたって村西を見つめてきた本橋氏は「村西さんがすごいのは、自分をスペクタクル映画の主人公だと思っている点。多分、頭の中でナレーションを流しているんじゃないですか。どん底の時も、上り詰めた時も。映画の主人公でいられるなら耐えられる。自分の映画の主人公をまっとうしてみるのもいいのではと、身をもって教えてくれたのが村西とおる」と話す。そんな本橋が村西のことを綴った半生記『全裸監督』。村西が本の帯に寄せた言葉は「人生、死んでしまいたいときには下を見ろ!おれがいる」だった。(AbemaTV/『偉大なる創業バカ一代』より)