差別や偏見と闘い日米親善・世界平和に奔走した人生!笠井重治はかく語りき【前編】

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昨今、特定の国籍や人種の方を対象とした「ヘイトスピーチ」が懸念されていますが、こうした人種・民族差別は今に始まったことではなく、かつて日本人もその標的として迫害されていた歴史がありました。

笠井重治。『笠井重治哀悼録』より

今回はそうした差別や偏見と闘い、日米友好・国際親善に奔走した政治家・笠井重治(かさい じゅうじ)のエピソードを紹介したいと思います。

青雲の志を抱き、いざアメリカへ!

重治は明治十九1886年7月14日、山梨県の西島村(現:南巨摩郡身延町西嶋)で、笠井兵吉(へいきち)とはなの長男として誕生しました。

重治の両親・笠井兵吉&はな。『笠井重治哀悼録』より

明治三十二1899年に西島尋常小学校を卒業、同年に県立甲府中学校(現:山梨県立甲府第一高等学校)に入学しますが、まだ13歳で中学校の受験資格年齢に達していなかったところを、重治の勉学意欲を見込んだ同中学校の教諭・越賀悦翁(こしが えつおう)氏の計らいによって特別に受験させてもらったそうです。

その期待に応えて見事に合格した重治は当然学年最年少(同級生は1〜2歳年上)、体格も小さかったため、よく「チビ」とからかわれたそうですが、もしかしたら、こうした体験も後に差別と闘う原動力となったのかも知れません。

ちなみに、同級生には文学者の中村星湖(なかむら せいこ。本名は将為)や、一級上の先輩には後に首相となる石橋湛山(いしばし たんざん。幼名は省三)がいたそうで、多くの学友と共に青雲の志を培ったことでしょう。

そして明治三十六1903年に17歳で甲府中学校を卒業した重治は、人生の岐路に立つことになります。

当時、日本は日清戦争(明治二十七〜八1894〜95年)の勝利で獲得した満洲の遼東半島をロシアらの圧力(三国干渉)によって返還させられ、何もできなかった悔しさから「ロシア、討つべし!臥薪嘗胆!(※1)」とリベンジに燃えていました。

強大なロシアに挑む(よう、欧米列強にそそのかされる)日本の軍人。ロシアの足元に満洲・遼東半島が押さえられている。当時の諷刺画。

17歳の健康な青年であれば、真っ先駆けて軍人に志願し、お国のため、打倒ロシアに立ち上がることが評価された時代です(実際、翌明治三十七1904年に日露戦争が勃発しました)。

しかし、重治はもっと学問がしたかったのです。目の前のロシアと戦うことがお国のためなら、学問で身を立てることもまた、間違いなくお国のため。

欧米文化をよく学び、諸外国の情勢に通じることで、日本の有り様が、そして日本人の目指すべき未来が見えてくる。

そう確信した重治は、その年の8月にアメリカ・シアトルへと旅立ったのでした。

(※1)がしんしょうたん。固い薪(たきぎ)の上で臥し(寝)て身体を痛めつけ、苦い胆(鹿の胆臓。漢方薬)を嘗めることで、悔しさを忘れずリベンジを目指すこと。

差別と偏見を乗り越えて・笠井重治はかく語りき

さて、留学のために渡米した重治はシアトル・ブロードウェイハイスクールに編入、ここで弁論術を学びます。

「今後、日本が欧米列強と鎬(しのぎ)を削って生き延びるには、ますます外国との交渉が重要になってくる。弁論こそ、英語を駆使できるようになる近道である」

そう確信して勉学に励んだ重治は、その甲斐あって明治三十九1906年10月、同校の雄弁競争会(ディーべート大会)で最高雄弁賞を勝ち取り、ワシントン州連合大会の代表に選ばれます。

そして臨んだ明治四十1907年5月のワシントン州連合雄弁競争会で、またも最高雄弁賞に輝きましたが、重治の活躍を喜ぶ者ばかりではありませんでした。

ビゴーの諷刺画。欧米の猿真似にいそしむ日本人の様子。

「何だよあいつ、黄色いジャップ(※2)のくせに……ただ猿真似が巧いだけじゃねぇか……」

アヘン戦争(天保十一1840年)以来、半植民地化された祖国からアメリカに移住する清国人(華僑)が増加、その貪欲な勤労姿勢が現地アメリカ人の商売を脅かして反感を買っていました。

それは同時に西欧各国でも問題となっており、次第にエスカレートして「黄禍論(※3)」が主張されるようになりました。

ビゴーの諷刺画。東洋の黄色い猿≒日本人が、人間のような顔して「列強クラブ」に入ろうとしている様子。

清国人に負けず勤勉な日本人も、同じ黄色人種ということでアメリカ人から差別や迫害(排日運動)を受けることがしばしばあったそうです。

重治も少なからず不快な目に遭ったでしょうが、それでもくじけずに明治四十一1908年にハイスクールを卒業、シカゴ大学政治学科に進み、大正二1913年に卒業しました。

卒業に際して、重治は「太平洋の優越感(The Mastery of the Pacific)」と題する演説を行います。

それはアメリカが直面している人種差別の課題について、人種や民族にとらわれず、互いの違いを認めた上で尊重し合うべきこと≒排日運動の停止を訴えたもので、自由と公正、そして正義を愛するアメリカ人の共鳴と感動を呼び起こしたそうです。

互いの違いを尊重し合える世界を。

最高雄弁賞に加えてカーネギー平和財団と日本政府からも表彰を受けたことで、重治は日米親善・国際協調のために奔走する人生を決定づけられたのでしょう。

(※2)JAP。日本の英語表記JAPANの頭文字からとった差別用語。
(※3)こうかろん。黄色人種が世界に禍(わざわい)をもたらすとするプロパガンダ。

【中編に続く】

※参考文献:
笠井盛男編『笠井重治追悼録』昭和六十二1987年4月
笠井重治『笠井家哀悼録』昭和十1935年11月
七尾和晃『天皇を救った男 笠井重治』東洋経済新報社、平成三十2018年12月