名古屋市西区にあるシヤチハタの本社社屋(写真:シヤチハタ)

5月1日から始まる「令和時代」。その1カ月前、4月1日に新元号が発表されると取材が殺到した企業がある。「印章」の代名詞であるシヤチハタだ。

「国内のメディアだけでなく、ニューヨーク・タイムズからも取材依頼を受けました。10日間で20社以上に対応し、電話も殺到。みなさん『新元号になるとシヤチハタはどう対応するのか』に関心があったようです」(広報部長の山口高正氏)

同社自身は、31年前の「平成」新元号時に対応経験は積んでおり、「令和」発表後に新元号に変更するスタンプなどの発注が動き出したという。「平成改元時と比べて、元号の改元時期がわかっていたことと、パソコンの普及もあり大きな混乱はありませんが、通常よりも注文は増えています」(同)

ちなみに、つい「印鑑」と言ってしまいがちだが、印鑑は「市区町村長などに届けておく特定の印影(押印)」を指し、はんこ本体は「印章」と言うそうだ。

売り上げは過去5年で10%増

シヤチハタは、何度も押せるはんこや、黒や赤のスタンプ台といった印章事業で圧倒的なシェアを持つ。仕事用デスクの引き出しに同社の商品がある人は多いだろう。

とはいえ、ペーパーレス化やデジタル化、さらに少子化の進展で、今後の生き残りはどうなのか。創業家出身の4代目で2006年に社長に就任した舟橋正剛氏に聞いた。

「業績は手堅く、2017年3月期は売上高で約178億1000万円、経常利益で10億7600万円でした。決算期が3月末から6月末に変更した2018年度も、それに近い数字です」

「IT化、デジタル化で苦戦」と思いがちだが、業績は順調だ。実は舟橋社長への取材は5年ぶりで、当時の売上高は163億円。5年で約1割上乗せした。何が好調なのか。

「大ヒットした商品が牽引したのではなく、既存事業や新規事業で多様な取り組みを行い、小さな花が咲いた結果なのです。主力事業は『Xスタンパー』と呼ぶ、インキを内蔵したスタンプ台不要の浸透印で、中でも個人名のはんこを朱肉なしで押せる『ネーム印』が当社の代名詞です。スタンプ台インキの補充なども手堅い事業です」(舟橋氏)

後述するが、同社は1995年からパソコン上で決裁する「電子印鑑」も手がけている。だが好業績を下支えするのは、「ネーム印」に代表される既存事業の深掘りなのだ。


「ネーム印」の着せ替え商品(筆者撮影)

「ネーム印も、ボディを着せ替える商品をたくさん出しています、例えばスマホカバーのデコレーションを思わせる品もあれば、動物をモチーフした品もある。定番カラーを出し続ける一方で、使って楽しくなる訴求もしてきました」(同)

この商品は数百円から高額品まである。キャップとボディをクリスタルガラスのラインストーンであしらうものは標準小売価格で3500円だが、一定の需要があるという。

この10年、文具の「個人買い」に訴求した

ここまで凝ったネーム印のボディを開発するのは、消費者の意識が変わったからだ。


「デコスタイル」の着せ替え商品(写真:シヤチハタ)

長年、好不況の影響を受けにくいといわれた文具業界だが、2008年のリーマンショック以降はそれが通用しなくなった。とくに経費節減のため、文具品を「会社購入」から「個人買い」に切り替える企業が増えた。舟橋氏はこんな体験を明かす。

「当時、出張で東京のホテルに泊まったとき、フロント係の女性が当社のピンクのネーム印を使っていた。門外漢のふりをして『こんな色があるのですね、個人で買われたのですか?』と聞くと、『ええ。会社が買ってくれないもので』と答えられました。それ以来、ネーム印を使われる場面に遭遇したときは、できるだけ聞き続けた。その経験では、黒以外のネーム印を使う方の大半が、個人買いでした」(同)

新入社員のデスクに、会社が「文具一式」を準備するケースは少なくなった。「ネーム印」も、会社で一括購入する場合は定番の黒が中心だろう。一方、個人で買う場合は、少し遊び心や楽しさを込めて選びたい。そんな風潮に目くじらを立てない時代にもなった。

こうした話を聞くと「ネーム印」の訴求手法は、シヤチハタが全事業の7割強を占めるBtoB(企業対企業)から、3割弱のBtoC(企業対個人)へ事業比率を高める象徴に思える。一般消費者に手に取ってもらう訴求を工夫すれば、「大量納品」意識も薄れるだろう。

ちなみに舟橋氏は日本の大学卒業後に渡米し、リンチバーグ大学大学院を卒業。帰国後は電通に勤めた後で入社した。電通時代は家電メーカーの販売促進支援も手がけたという。そうした経験を踏まえて「これだけ文具にこだわる国民は日本人だけ」と話す。

25年手がける「電子印鑑」は道半ば

はんこやスタンプ台のイメージが強いシヤチハタだが、実はIT化の取り組みも早かった。「ウインドウズ95」が日本に上陸した1995年に「パソコン決裁」という商品を発売している。

これは「電子印鑑」で、紙の書類に押す印章ではなく、パソコン上の書類に押すシステム。バージョンアップを重ねて、現在は「パソコン決裁Cloud」などで提供する。紙の書類のように、上司が座席にいるのを見計らって重要書類・申請書類に捺印をもらう手間もかからず、業務効率化につながるものだ。だがいち早く参入し、価格も高くないが事業は伸び悩む。

「現在、約1万数千社にご利用いただいていますが、期待したほどには伸びていません。電子決裁ですべての業務を行う会社は少なく、売上高もまだ数億円程度。大企業でも『クラウドは使用しない』『重要書類は紙書類で決裁』を社内ルールにする会社も目立ちます」(舟橋氏)

「令和時代」でも、社内決裁は昭和時代の手法が主流だが、諦めてはいない。

「スマートフォンなどタブレット端末が当たり前となり、端末を使って外出先で決裁をする需要が高まりつつあります。IT企業と連携して『デジタルの稟議(りんぎ)でもシヤチハタ商品を導入する』ようにしたい。そのためにIT関連技術も磨き続けます」

ちなみに25年前の開発時は、SE(システムエンジニア)を大量採用せず、当時、西和彦氏が率いていたアスキー・ネットワーク・テクノロジー社と提携し、そこでシヤチハタ社員がノウハウを学んで開発したそうだ。基盤技術は自社で会得することも同社のDNAだという。

印章事業の捺印部分は、カーボンや薬品を配合して自社で製造し、印章本体のプラスチックも成形は社内で行う。インキも顔料、染料、溶剤を調達して何万種類もの配合を社内で研究開発している。

「長年、オフィスに大量納品の商売をしてきたため、一般消費者向けの発想に欠けていた。そこで取り組むのが『もっとたのしく! シヤチハタ委員会』というプロジェクトです」

舟橋氏がこう話す活動からは、さまざまな商品が生まれてきた。

例えば2014年には、新生児用おむつの名前書き「おなまえスタンプ おむつポン」を発売した。2003年から発売する、プラスチックなどの非吸収面に押せるインキの応用で簡単に押せる「おなまえスタンプ」の派生商品だ。大人用紙おむつもあるので、介護施設に入居するお年寄りにも応用できる。

「おりがみ工場」という商品もある。プラスチックのフレームに、チラシや包装紙などをはさめば、はさみも使わずにおりがみ用紙ができるというもの。子どもと高齢者が対象で、子どもは情操教育に、高齢者には頭と手先を使うことで、認知症予防も期待するという。

いずれもニッチ商品だが、注目したいのは「新商品」を発売する気風だ。メーカーは新商品を発売しようとすると社内が元気になる。研究開発にも刺激を与えてくれるだろう。

「成熟市場でもやり残したことがある」

伝統事業を守旧するのではなく、活性化させる姿勢は大切だ。筆者が時々思い描く「成熟市場でもやり残したことがある」という言葉も紹介したい。


オフィスの定番品である「Xスタンパー」(写真:シヤチハタ)

花王の“中興の祖”と呼ばれた丸田芳郎元社長の語録だ。「もう十分やりつくした」「これ以上、消費者は求めていない」と思えば、送り手の発想も止まってしまう。

最後に舟橋氏に、取材意図で掲げた「シヤチハタの生き残り」について聞いてみた。

「技術の深掘り、品質の深掘りをしたうえでの新しさが大切です。どんな時代になっても、紙書類や電子書類の片隅に『印章』を押す行為は簡単になくならないと思います。当社が創業して今年で94年。ニッチな市場ですが、1世紀かけて“印章ならシヤチハタ”と思われる会社になったので、これからもそうありたい」

ビジネスの現場で「カジュアル化」が進む一方、「公的文書」など事務手続きの分野では、リスクマネジメントを含めて一定の重みも大切だ。シヤチハタが「成熟市場でやり残したこと」をどう見つけて訴求していくのか。電子化の流れとともに注視したい。