【ディエゴ・加藤・マラドーナの転機】SNSが芸人生命をつないだ

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スタジアムに通う人なら、エキシビションマッチなどで現役時代のディエゴ・マラドーナを真似た芸人を見かけたことがあるかもしれない。もじゃもじゃヘア、ピチピチのパンツ、様々な誇張された仕草などがそっくりだ。

ところが、実際にプレーを見ると印象が変わる。大きな太もも、テクニックのある左足などから「ただ者ではない」とわかるはずだ。それもそのはず、「ディエゴ・加藤・マラドーナ」はかつて帝京高校で「10番」をつけていた正真正銘の選手だった。

その「10番」にも挫折の日々があった。何が中学校時代の彼を救ったのか。そして芸人の道を一度は断念した彼が、どうして「ディエゴ・加藤・マラドーナ」として今も活動しているのか語ってもらった。

【取材:日本蹴球合同会社・森雅史/写真:Japan Staff Association】

クラブをクビになったときに救ってくれたのは

僕、中学で横浜マリノス(現・横浜F・マリノス)ジュニアユースに入ったんですけど、2年から3年生に上がる直前の春休みにクビになったんです。監督から「試合に出せない」って言われたんですよ。

今、冷静に振り返ると、確かに自分の力を発揮できてなかったと思うんです。マリノスっていうブランドもあったんでたくさんのいい選手がいて、その中でいいパフォーマンスが出せずに、伸びることはあまりなかったなって。

コーチとの相性とかいろいろあったと思います。それから、僕は自分で攻撃的な選手だと思ってて、ずっと攻撃的なポジションでプレーしてたんですけど、左サイドバックとかディフェンスとかやらされてたし。ただ今思うと、なぜディフェンスをやらせてもらったのか、自分は考えられてなかったなって。

結局、マリノスのジュニアユースだった2年間は試合に出てないんですよ。ずっと控えの選手で、自分の位置もだんだん端っこのほうに行く感じになってたんです。でもそれは実力の世界だし、僕が馴染めなかったということなんです。

僕は小学生5、6年生のときに横浜市選抜に選ばれてました。ただその上の神奈川県トレーニングセンターには選ばれなかったんですよ。それが小学校6年のあるとき、横浜市選抜と神奈川県トレセンが試合をすることがあって、試合後に神奈川県トレセンを指導していたマリノスのコーチから、試合に出ていたみんなと一緒に「マリノスのセレクションを受けに来い」って声をかけてもらったんです。

それでテストを受けたら、横浜市選抜から2人だけマリノスのジュニアユースに入ることができて、僕はその中のひとりでした。そのとき落ちた横浜市選抜のチームメイトたちは、みんな横浜の「神奈川クラブ」というチームに行ってたんです。

マリノスを辞めることになった僕は、中学3年のときに神奈川クラブに入りました。マリノスのコーチの知り合いがやっているということで勧めてもらったんですよ。マリノスは中学校の1部リーグで、神奈川クラブは2部だったから、格下なんですけど。

2年間を経て横浜市選抜で一緒だったみんなと合流したとき、みんなは僕を温かく受け入れてくれたんです。みんな仲良かったから余計に入りやすかったし、馴染みやすくて。それで、3年からチームに入ってもすぐ力が発揮できました。

そうしたら僕は試合のとき、チームの中心としてプレーすることができたんですよ。いろんなタイミングがあったと思うんですけど、チームはすごくいい成績を残せるようになった。仲間も「僕が来ていい成績を出せるようになった」と言ってくれて、うれしかったですね。

目標としている大会に「高円宮杯全日本ユース(Uー15)サッカー選手権大会」の神奈川県予選がありました。クラブチームではマリノス追浜、マリノス新子安、横浜フリューゲルス、ベルマーレ平塚(現・湘南ベルマーレ)、学校では桐蔭中学とかいろんな強豪が争うんですけど、彼らはみんな1部で、僕たちは2部。2部のチームって、2部で1位にならないと、高円宮杯予選に出られないんです。

だからまず2部でトップになって、それで高円宮杯予選に出ました。そして強いところ、全部倒したんですよ。僕たちが神奈川県代表になれた。これはね、ホント、うれしかったですね。

そうすると高校に進学するとき、マリノスから「ユースに戻ってこい」って誘ってもらったんです。僕はクソガキだったんで、プロになりたかったくせに意地になって「いや、行かないです」って断って。で、高校に進学するとき、いろんな事情があって千葉の高校に進むことになりました。

でも、その高校もちょっと合わなくて1学期で辞めて、夏休みにはプー太郎になってたんです。でもどうしてもプロになりたくて。それで今度は帝京高校に入り直して、最後は10番をつけることができました。

今思うと、マリノスをクビになったときにふて腐れてたら終わってたでしょうし、神奈川クラブに行ったときに僕が偉そうだったり、友だちが受け入れてくれなかったら、それでも終わったと思います。

マリノスをクビになったショックはありましたし、その気持ちを原動力に変えたというのはあるんですけど、それだけだったら結果を残せなかったかもしれないです。あそこでもう一度、友だちとプレーできたことでその後の僕があったと思いますね。僕にとってみると、あれが「転機」だったでしょう。

そう考えると、どんなブランド力があるクラブでも、やっぱり自分に合うかどうかってあるんですよ。Jリーグの下部組織に入ったほうがいいかどうか、ちゃんと見極めたほうがいい。それでもし入れなくても、まだたくさん道はありますから。

事務所を辞めた後にSNSで仕事が来るように

大学を卒業するとき、サッカーの道は諦めたんです。その後、ワタナベエンターテインメントの養成所、ワタナベコメディスクールに入って芸人になったんですよ。

当時は帝京の同級生と「ダイヤモンズ」というコンビを作って活動してて、そこでマラドーナの格好をしながら芸をしてたんですけど、これが若い女の子たちには全然ウケなくて(笑)。

地上波のテレビの仕事はいつも本名でしたね。一番最初は、「メントレG 地球貢献プロジェクト」(フジテレビ系)っていうTOKIOさんの番組で、タイの奥地にいって吊り橋を作るっていう企画をやらせてもらったんです。

あれ、本当に何も知らされないまま急に海外に連れて行かれるんですよ。オーディションの前、全員に「パスポート取っておくように」って言われたから、「海外取材があるのかな?」って思ってましたけど。

でもまさかオーディションで合格したその場で「今から行きます」って言われて、親に電話もできないまま連れて行かれるなんて思いませんでした。「家の窓を閉めてないんですけど」って言ったら、マネージャーが「家の鍵を預かります」って。容赦なく空港に連れて行かれて、3カ月橋を作ってました。

よく考えると、「ディエゴ・加藤・マラドーナ」で地上波に呼んでいただいたことはないですね。「炎の体育会TV 宮迫JAPAN」(TBS系)に出ていたときも素顔で本名で出ていたので。別の番組では「ディエゴ・加藤・マラドーナ」でオーディションを受けたことがあるんですけど、最後の最後にひとりだけ落とされたりしました。

「ダイヤモンズ」の次は「春夏笑冬(しゅんかしょうとう)」というトリオを作って活動したんです。でも、35歳になったことをきっかけにトリオは解散し、僕も事務所を辞めたんです。

そのときに自分で会社を作って、全然別の分野で働こうとしたんですけど、一応、「ディエゴ・加藤・マラドーナ」のオフィシャルサイトとFacebookだけは残してたんです。だから僕が芸人を辞めたというのは、SNSをやってる人たちは感じなかったみたいでした。

SNSではマラドーナではなくて、素顔でやらせてもらっているお仕事の告知が多かったんですけどね。それでも僕がまだ芸人を続けているだろうってことで、「ディエゴ・加藤・マラドーナ」へのお仕事をいただけるようになったんです。オフィシャルサイトからの申し込みですよ。

もし芸人を辞めたときに全部諦めてSNSを閉じていたら、その後は何もなかったですね。それがSNSを残してたおかけで、起業して結婚もして、自分の人生を歩んでいこうと思ったときにオファーが来たんです。

「ありがたいな」と思ったんですけど、そのとき一緒に「自分って何なんだろう?」と思いましたね。「事務所を辞めちゃったけど、自分って芸人なんだろうか?」って。

それで気づいたんですよ。確かに事務所には所属してないけど、人前に出て人を笑わせる人って芸人じゃないかなって。そう強く思うようにしたというか。

極端な話、芸をしてお金がもらえない人でも、僕は芸人だと思うんです。自分で自分が芸人だと思ったら芸人なんですよ。人から評価されるかどうかは自分次第だけど、プロとしてやっていけるかどうかは人の評価だから。テレビで売れる人だけが芸人じゃないと。

誰も全然知らなくても、ひとりしかいない客の前でやり続けてる人ってやっぱり芸人だと思います。売れてない人間の遠吠えって聞こえるかもしれないですけど。

僕は今「お笑いサッカー芸人」って名乗ってるんです。そもそも「芸人」に何のジャンルがあるか分からないんですけど、僕はその言葉を大事にしてます。もちろんいろんなチャレンジはするんですけど、自分が売れてテレビの仕事をいっぱいいただいて生計を立てられるとは思ってなくて。

でもその中で「ディエゴ・加藤・マラドーナ」をやり続けていこうと。テレビに出る芸人さんはすごいと思いますけど、僕はそうじゃない。僕はテレビ用の芸じゃなくてサッカー場での芸だと思ったんです。だから僕は「お笑いサッカー芸人」。自分を突き詰めたので、そう名乗りたくなりました。

そうしたらね、夢が叶ったんですよ。2019年4月にメキシコに行ったんです。1986年メキシコワールドカップでディエゴ・マラドーナがキャプテンを務めたアルゼンチンが優勝してたし、メキシコ2部のドラドス・デ・シナロアでマラドーナが監督をしてるから。

そのマラドーナがカップを掲げたアステカスタジアムでは「ディエゴ・加藤・マラドーナ」としてピッチに立つことができたんです。さらにマラドーナ本人にも会えたんですよ。しかも2回も。2回目は覚えていてくれて。やっぱりやり続けてよかったと思います。(了)


ディエゴ・加藤・マラドーナ本名は加藤謙太郎(かとう・けんたろう)、1980年10月31日、神奈川県生まれ。大学卒業後、会社員として働き始めたが意を決して芸人に。だがトリオ解散で踏ん切りを付け、事務所を辞めて、お笑いとは関係のない事務所を立ち上げた。ところがその後、SNS経由で芸人としての仕事が舞い込み、現在もテレビやイベントなどで活躍している。