【土井敏之アナの転機】転職するか悩んだとき、決断を後押ししてくれた人物

TBSサッカー実況の顔としてすっかり定着している土井敏之アナウンサーだが、実は大学卒業時に別の放送局に入社していた。将来が見え始めたとき、「転機」がすごいスピードで訪れたのだという。
何が起きてTBSに入ったのか、後押ししてくれたのは誰だったか、転職のときの失敗とは何か。そしてTBS入社2年目で巡ってきた日本の命運がかかった試合、1998年フランスワールドカップ予選、ホームの日韓戦では何を見たのか。
自分の実況に対する視聴者からの厳しい声も届いているという。その声に対してどう思うのか。どんな気持ちで実況席に座っているのか。忌憚なく語ってもらった。
まさかあのチームがこんなに強くなるとは思わなかった
私、最初に入ったのがNHKなんですよ。最初の配属が佐賀支局でした。1994年入社で1995年までいました。
実は大学のアナウンサー研究会の一つ先輩が佐賀支局だったんです。だから、同じ支局に行くことはないだろうって思ってたんですけど、NHKからすると、大学のサークルの一つ先輩なんか何も気にしてなくて(笑)。
当時、佐賀には鳥栖フューチャーズ(サガン鳥栖の前身)があったんです。マラドーナの弟、ウーゴ・マラドーナがいて、あとはステファン・タタウというカメルーン代表の元キャプテンもいて。ユーゴスラビアのドラギシャ・ビニッチもいましたね。態度悪いけどそんなに働かないっていう(笑)。他にも松永成立さんなんかも所属してました。監督が桑原隆さんで、お兄さんの桑原勝義さんと一緒にチームを立ち上げた方でしたね。
鳥栖の山下英雄市長がプロサッカーチームを招致したいとおっしゃってたんです。他の市長さんや佐賀県知事も「無理だ、何を言ってるんだ」っていう中で、鳥栖市長さんが頑張って呼んだんです。
けれど、チームがやって来たのはいいけど、鳥栖のスタジアムはまだJRの土地を使ってこれから工事してというときでした。それで流浪の民みたいに、ホームゲームなのに佐賀市陸上競技場で試合をして、練習場も佐賀にあって。ホームが鳥栖市なのに佐賀市でずっと試合をするなんて、めちゃくちゃな時代でしたね。
佐賀のNHKでは試合を放送することもあったんです。私は入ったばかりだったのでレポーターぐらいしかやってないんですけど。最初にJリーグの取材に関わったのはあの時でしたね。もう1年いたら鳥栖フューチャーズの解散、サガン鳥栖の誕生ということを取材してたんでしょう。まさかそのチームがいま、こんなに強くなるなんて思ってなかったですね。
1カ月で大きく変わったアナウンサー人生
それでNHKには2年いて、1996年にTBSに入ったんです。TBSにいる人間の中で、私は自慢できるぐらいの数、放送局の入社テストに落ちてるんですよ。だいたいみんな「他のキー局を落ちたけどTBS」「TBSを最初に受けてそのままTBS」とかなんです。たぶん落ちた数で言えば、清水大輔さんと私が一、二を争いますね。
TBSは1次面接でダメ、日本テレビもフジテレビも書類選考でダメ、テレビ朝日は1次面接行って漢字読んだだけでダメ、テレビ東京もダメで、準キー局の大阪の読売テレビは最終まで残ったんですけどダメとか。
それから全国各地いろいろ行きました。RCC中国放送も最終まで行ってダメ、札幌放送が始まっていた途中だったかな。で、最終的にNHKで。
放送局のテストってこういうものだ、アナウンサーのテストってこういうものなんだっていうのを理解するまでに時間がかかっちゃったんです。だから一発で受かっている人たちはすごいですよ。よく「この試験は、こういうことを求められてる」と理解して答えを出せるなって。私は何回も失敗しないとわからなかったですね。だから放送局に入るまでそれはそれは手間取って。
実は、NHKはあまり考えてなかったです。ただスポーツの実況、オリンピックの放送をやりたくて、そうするとNHK、民放でもやっぱりキー局しかなかったんです。それで民放受けて全部落っこちたので、NHKに拾ってもらったようなもんです。
そんなにして入ったNHKですから、辞める気なんて毛頭なかったんですよ。当時も、夢にも希望にも燃えてましたし。1年目で高校野球の佐賀県大会の実況をさせてもらって、2年目には九州大会の実況にも呼ばれたんです。
自分の進む道が非常に見えてきて、「このまま行くと甲子園で実況して、そのあとスポーツアナウンサーとして生きていけるかな?」という雰囲気だけはあったんです。その兆しや光が見えてたんで、辞める気はなかったんですよ。
それに佐賀支局に入ったことがよかったんです。佐賀支局には、岩佐英治さんという人がいらっしゃって。岩佐さんはのちにNHKのチーフアナウンサーになる方で、サッカーも相撲も野球も実況をやっていたという極めて珍しい人でした。
普通はこの3つってまたがないんですけど、優秀だったんでやってらしたんですよね。Jリーグのときに呼ばれて行って、相撲でも必ず呼ばれて、1年のうち半分いないんじゃないかって人だったんです。けれど、それだけスポーツをバリバリ実況できる方が上にいたんで、ありがたかったですね。
いろいろと教えてもらったし——あんまり教える人じゃなかったんですけど、空気を持ってるからこういう感じでやるんだよとか、こういうふうに見てるんだよとか、放送見たり準備をしたりするのを見たりすると感じられるんで、それは大きかったですね。的確なアドバイスももらえました。
そうしていると、TBSでたまたま現役のアナウンサーを対象にした中途採用があったんです。1995年の10月ぐらいですね。条件は「現役のアナウンサーのみ応募できます。スポーツの実況をしたい人」って。そのときに、これまたアナウンス研究会の先輩だった初田啓介さんから「土井ちゃん、受けなよ」っていうお誘いをいただいた。
「今までしゃべったテープと履歴書でいいから送ってみない?」って軽く言われて、「そうですね。これも力試しかな」って。NHKを辞めるつもりもなく、先輩に言われたんでっていうので、高校野球の佐賀県大会を実況したテープと履歴書を送ったら、あれよあれよという間に話が進んでいっちゃって。
面接のときは現役の松下賢次さん、石川顯(あきら)さんという大ベテランの方々がいらっしゃるんですよ。「あわわ」って慌てました。そういう面接を越えると、今度は人事の出すペーパーのテスト、性格診断みたいなのもあったんです。そして最後に役員面接に呼ばれたんですが、それが12月で。
そこまで募集から2カ月で、何か物事が動き始めてから1カ月ぐらいでしたかね、ポンポンと決まっちゃって、1995年12月の終わりに内定が出たんです。
そうしたら、岩佐さんが後押ししてくださったんですよ。「5年経ったら人間関係ができでしがらみもできるし、愛着も湧いて、絶対に辞めなくなる。それに5年経ってから転職を考えたときに、今ある話は絶対ないだろう。せっかくの機会だし、2年目の今のうち辞めちゃったほうがいいよ」って。岩佐さんには今でもずっと感謝しています。
引き留められずあ然としながら正月三が日に引っ越し
実はTBSには一応もったいぶって言ってたんですよ。その当時、NHKからアナウンサーを引っこ抜いてもめるというケースが民放にはまだあったんですよね。私は何かしらのトラブルにならないように慎重に事を進めたいと思ってました。
だからTBSには「ちょっと時間がかかるかもしれません、ナーバスになってますし、辞めるまで手はずを整えないといけませんから4月入社になるかもしれません」と伝えてたんです。TBSは「いいですよ、慌てずに」と言ってくれました。「問題のないように辞めていただければ、こちらはいつでもどうぞ」という感じだったんです。
それで12月20日、NHKに「すみません」と事情を話したら、12月21日に「じゃあ、12月31日付けで辞めてください」って、すぐオッケー出ちゃったんです。引き留めないのか、ここはってガックリです(笑)。
まったく引き留められなくて1日でオッケー出ました。TBSには「すみません、12月末日付で辞めることになりました」って恥ずかしながら電話して。そうしたら1月1日入社になったんです。実際は1月4日が仕事始めだったんで、4日が初出社だったんですけどね。
そこから大変ですよ。佐賀のみなさんにご挨拶に行って、同期には辞めるからって電話して。ところが12月31日のニュースまでやって辞めるもんですから、1月4日までの3日間、正月三が日で引っ越ししなきゃいけない。その時期は引っ越し業者がやってないんですよ。3日にようやく日本通運さんがやってたんで、お願いして引っ越しました。
あっという間に決まって、あっという間に始まりました。もしあの募集がなければ受けてないでしょうし、先輩がいなければ受ける気持ちにもなってなかったでしょうし。たまたまのタイミングでした。
NHKからTBSに移るとき、私はNHKと民放はきっと違う感じがするだろうと思ってたんです。NHKにいたときは、民放って軽い感じややや適当なところがあるんじゃないかって考えてて。ところが、実際に行ってみると、これが意外に企業文化が似てたんですよ。すこし真面目なところが極めて近かったですね。
私がやっているスポーツというジャンルに共通するのかもしれませんが、真面目なんですよね。物事をどう捉えて何をどう伝えるかとか。アナウンサーの仕事としてどの局で何をしていてもそんなに差がないんだとは感じました。もしかしたらTBSとNHKは親和性がある放送局なのかというのは今も思いますね。
TBSで働き出すと「仕事を2年もしてるんでしょう? もう研修は終わってるよね」という感じでした。だからすぐ仕事が割り振られたのですが、やっぱり最初は新人がデビューする定番の、「提供クレジットやラジオCMを読むという仕事」でした。NHKにいたら、この2つの仕事はありませんからね(笑)。そこからスタートです。
ただすぐ1カ月目の1月からラジオで話せということになり、2月にはプロ野球のキャンプに行ってました。「あなたに研修はないよ」「早く戦力になってね」という感じでしたね。
野球に関しては、大学生のときに野球場に行って実況の練習をするとか、そういうことをやっていましたし、NHKで高校野球の放送もやりましたから、イメージができてたんです。こういうものだろう、こういう気を遣わなければいけないというのがわかってて。
ですがその他のスポーツというのは、それこそ初めて取材に行くようなもので。サッカーに関して言えば鳥栖フューチャーズには行きましたが実況はしたことがない。そういうことを一から学ぶという感じでした。
私にとってよかったのは清水大輔さんがやっていた「スーパーサッカー」を1998年から私と白石美帆で引き継いだことでしたね。「スーパーサッカー」という母船みたいなものがあって、その番組をやっている土井としてみんなに認識してもらったから、現場に行ってもやりやすかったんです。そこでサッカーのテンポ感とか、こういう感じで話すというのを学びましたね。
そうしたらTBS入社の2年目、1997年9月28日に1998年フランスワールドカップアジア最終予選の日本vs韓国、国立競技場の試合をTBSが放送することになったんです。
私は韓国サイドのリポーターでした。ベンチ裏にいる今とは違って、ベンチの真横にいたんですよ。試合は67分に山口素弘のゴールが決まって日本が先制するんですけど、84分、87分に韓国のゴールが決まって逆転されるんです。車範根監督が韓国のゴールが決まったときに十字を切って祈っていたのを見ました。
韓国サイドのレポーターですから、韓国がゴールを決めたときにベンチを見て、その様子を話す立場なんです。それで何を言おうかと考えていたんですけど、まず同点に追いつかれたとき、韓国ベンチの横にいるのに隣のディレクターが呆然と立ちすくんでいるんですよ。
ディレクターは逆転されたとき、持ってたボードを地面に叩きつけてました。入社2年目ですからね、こちらも緊張感があるのに、ディレクターはもう別を向いてるし。「いやいや、悔しがっちゃダメだから」って、そう思いながら冷静になろうとしていたというのが、あの試合の思い出ですね。
私たちは署名記事を書いているのと同じ
私たちに対する意見は、昔は視聴者サービスセンターなんかに電話があったんです。「アイツの実況は何だ、うるさい」とか。そうやって不満があったときの声は直接放送局に向かっていたんです。それが今は不満の声がSNSに向かって行って、そこから間接的に放送局に届くようになったと思います。
私たちは日本代表戦に行けたり、一番いいところで試合を見られたりするわけで、それを放送する責任は感じています。だから自分は何か言われても仕方がない。そういう覚悟を持って放送席にいます。
私たちは署名記事を書いているのと同じなんですよ。自分たちの名前と顔をさらして話しているので、いかなる責任も自分で負うということですから。ただ、波風立てようとか、フックをかけようとかクサビを打ち込もうという気はないんです。だからもし波風を立ててしまったらごめんなさいという感じでしょうか。
ただ、いろいろ狙っていって外すというのだけは、本当に間違っていると思います。そして狙うと必ず外します。何かを用意して、準備して、このフレーズをここに入れるとか、こういう描写をしてやろうとするとうまくいかないんです。
決め台詞に向かって逆算して「こうやって、ああやって」とやってるとダメなんですよ。むしろ、やっていくうちにこうなってしまった、というのに近いのかなと。
それから、「この実況よかったね」という声はなかなかあがってこないと思います。ですが、むしろそれでいいと思います。「この試合見てよかったな」と思っていただければいいんです。いい反応はどうぞ、胸の中に留めていただければ、それが幸いです。(了)
土井敏之(どい・としゆき)