東京で1人暮らしを始める際、家賃の高さに目を疑う人は多いのではないだろうか?

特に23区の人気エリアでは、狭い1Kでも10万円を超えることはザラ。まだ収入の低い20代の若者たちの中には、“実家暮らし”を選択する者も少なくない。

家賃がかからない分可処分所得が多くなり、その分自分の好きなことにお金を使えることは、大きなメリットだ。

大手総合商社で働く一ノ瀬遥(28)もそのうちの一人。

仕事は完璧、また収入の大半をファッションや美容に投資できる彼女はいつも隙なく美しく、皆の憧れの的。最近は新しい彼氏もでき、全てが順風満帆…のはずだったが!?




「遥さん、ちょっと困っていて…」

入社2年目の安西梢が大きな目を潤ませ、遥に助けを求めてきた。大手総合商社の食品部門、水産品チーム。梢は4期下の後輩だ。

「この顧客の件、出荷ペースが上がって在庫が追いつかないかも知れないんです。書類に不備もあるし、不良品も増えてきているから心配で」

ちょっと見せて、と遥は後輩のデスク上の書類とエクセルシートに目をやる。考えをさっと巡らせる。

―私がうまくサポートできれば、あとは彼女の力でなんとか出来そう。

そう思った遥は、優しい言葉を選び、後輩に伝える。

「今の段階で気付いてよかった。現地には私から連絡入れておくよ。梢ちゃんは、もう一度倉庫の担当者に協力を仰いで。お客さんへの説明の仕方は、一緒に考えてみよう」

はい、と少し安堵の表情を浮かべた後輩に微笑み返し、ボーナスで買ったカルティエのタンクに目をやる。午後4時半からの打ち合わせまであと5分だった。

遥は予約しておいた会議室の電気をつけ、人数分の資料を並べる。下ろしていた髪を後ろで束ね、プロジェクターに電源を入れる。パワーポイントが写るまでのわずかな時間で、冷たいミネラルウォーターを人数分取って戻り、セットする。

全てを整えたタイミングで、支店長と上司が入室してきた。

「一ノ瀬さん、さすが!資料もよくまとまってるし、この目標が現実になれば全部一ノ瀬さんの手柄だよ」

「とんでもない。皆さんについていくので必死でしたから」

部長の褒め言葉に、遥は口角を上げて答える。頑張った分だけ跳ね返ってくるこの仕事に、遥はやりがいを感じている。

打ち合わせを終えて戻ると、18時半を回っていた。既に定時は1時間ほど過ぎている。あと一息、と遥が座り直したとき、LINEの新着メッセージに気づいた。

―圭介:お疲れ様。今日はこれから会食。終わったら連絡するね!

付き合ってまだ1週間の彼、大石圭介からだ。

―遥:お疲れ様!頑張ってね♡

LINEを見て思わず顔をほころばせていると、目の前に座るベテラン社員・柴田さんが遥をチラと見てきた。


完璧な仕事ぶりを発揮する遥。しかしそんな彼女に対してベテラン社員・柴田さんは・・・?


何か言われるかと思ったが、遥を一瞥したあと柴田さんはすぐパソコンに目を移し、力強くキーボードを叩き続ける。

お手伝いしましょうか、と声をかけようかとも思ったが、「いつもの嫌味」を言われるのが関の山だと考え直し、事務仕事を片付けた遥が退社したのは20時だった。

帰りの地下鉄に揺られながら、遥は未来に思いを馳せる。

他商社で働く遥の彼・圭介は、遥の1歳年上、29歳だ。付き合いたてだが、アラサ―ともなれば付き合う相手との将来はどうしたって考えてしまう。

―仕事は続けたい。もし駐妻になっても、会社の制度を使って戻ってきたい。

―そろそろ彼の家にも行ってみたいな。

奥沢駅で降り、家に向かっている夜道でも、そんな風にぼんやりと幸せな空想が遥の心を占めていた。




ただいま、と玄関の扉を開けた途端に、愛犬・マルチーズのミミが遥に駆け寄って来た。

「ミミちゃ〜ん、ただいま♡いい子にしてたかなぁ?」

遥は会社にいるときとは全く異なる、1オクターブ高い甘えた声を出しながら愛犬を抱える。

「おかえり、遥。残業だったの?」

エプロンをつけた遥の母・薫子が、キッチンからダイニングの方に顔を出す。

リビングには飛騨家具、ギャッベのシックなラグ、よく使いこまれた茶色い革のソファ。コートを脱いでカバンを置き、そのままソファにどさりと座る。

―ああ、家に帰るとやっぱり落ち着く…。

遥は実家から一度も出たことがない。生まれてこの方、28年間ずっと両親とともに住んでいる。

「そうなの〜。夕方の会議が長引いちゃってさぁ。はーぁ疲れた…。今日のご飯、なぁに??」

「今温め直すから、ちょっと待ってて」

食卓の上にはビーフシチューと、イカとエビのマリネサラダが置かれている。

「わ〜♡エビ、美味しそう!」

「もう…。そんな調子のいいことばかり言ってないで、いい加減自分で作れるようになってほしいわ」

「いざとなれば、できるって!お母さん、これお弁当に持っていけないかなぁ。おー、ミミちゃん、おいでおいで」

ため息交じりの母の言葉をしれっとかわし、愛犬と戯れながら洗面所に向かった。こんな会話をしてるなんて、会社の人には絶対知られたくないな、と思う。

この世田谷の実家にいれば、会社まで1時間かからない。家賃の支払いは不要。

残業で遅くなっても、用意されている温かい食事。季節に合わせてきちんと整えられている寝具、脱ぎっぱなしにしてもきちんと畳まれている洋服。

そして何より、今日あった出来事や他愛もない話に耳を傾けてくれる家族。

実家暮らしは天国だ。

就職と同時に家を出た弟には馬鹿にされている。そう、いつまでもここにいるわけにいかない、とぼんやりとした自覚はある。そして気付けば28歳になっていた。

(これだから、実家暮らしはね)

遥の脳裏に、会社の大先輩、柴田さんにいつぞや言われた嫌味が蘇る。

「なにぼやっとしてるの。早く食べないと。あっ、お風呂、追い焚きしておくね。」

「…ありがと」

いつまでも甘えてはいけないと思いながらも、快適過ぎる実家の魅力には抗えない。思う存分仕事に打ち込めるのも、ボーナスでカルティエの時計が買えるのも、実家暮らしだから為せる技だ。

だから遥は時々考える。実家暮らしってそんなにいけないことなのだろうか、と。

経済的には楽だし、両親はなんだかんだ娘が家にいることが嬉しそうだ。柴田さんに嫌味を言われたり肩身の狭い思いをすることはあるが、別に誰かに迷惑をかけているわけではない。

…ただ実家暮らしということを圭介にはまだ言っていない。付き合いたてだし、何となく言いそびれてしまっている。

遥は母の手料理を食べたあと、追い焚きされた心地良い湯につかりながら、ぼぅっと幸せを噛み締める。

部屋に戻ると、ソファに脱ぎっぱなしだったコートが、クローゼットにきちんとかけられていた。


実家暮らしを堪能する遥。それを知らない一方の圭介はというと…?




遥の新恋人・圭介はというと…?


―圭介:会食終わったよー。後輩と軽く飲んで帰るね。

圭介は遥にLINEを送り、部署の後輩・池田との会話を続ける。

「え、大石さん、彼女出来たんですか?うわー、めでたいな。いつ以来ですか?何個下ですか?かわいいですか?写真見せてくださいよ。うわー、めっちゃ美人じゃないですか。賢そう、綺麗系。え、で、出会いは?デートはどこでしたんですか?」

接待の肩の荷が降り、酔いが回り出した後輩から、圭介は質問攻めに合う。

「普通に食事会だよ。久々に声がかかったから。デートはこの間、『オステリア アッサイ』に行ったかな。彼女、“できる女”って感じだから、店選び緊張したけど。喜んでたよ」

食事会で、圭介は遥に一目惚れをした。圧倒的に美しい外見はもちろんのこと、同年代の女性にはない凛としたオーラに強く引き付けられたのだ。

酔っ払った池田が、圭介にさらに絡む。

「いやー、良かった。圭介さん、研修前からずっと彼女いなかったし、ポートランド研修中も遊んでなかったって聞いてたから、全然興味ないのかと思いましたよ。てっきり仕事一筋なのかと」

「別に興味がないわけじゃない。ピンとくる子がいなかっただけだよ。でも、この子は本当に大事にしたい。歳も歳だしな」

「あ、それ俺この間聞いたんですけど。出会ってすぐ、結婚にビビッときたってやつ?そのカンって当たってるらしいですよ」

「やめてくれよー、そんなまだ早いよ。…でも、真剣に考えたいと思ってはいる」

「おおー、すげー。めっちゃ惚れてるじゃないですか!彼女さんって、独り暮らしですか?」

「まだ聞いてないけど、都内に住んでるし、料理が趣味って言ってたからな」

実は遥について知らないことがまだ多かった。食事会で一目ぼれして初めてのデートですぐに告白。早くアタックしないと他の男にとられてしまいそうで、気が気じゃなかったのだった。

「彼女さん、28歳でしたっけ??まぁ普通に考えれば独り暮らしですよね。料理が得意な彼女っていいなぁ〜。・・しかもこんな美女!!」

褒めちぎってくる後輩をなだめながら、圭介は既読にならないLINEを見ながら遥のことを思った。

遥は今頃、家で何をしているのだろう。彼女のことだから栄養バランスの取れた完璧な食事を作り、今頃ベッドで本でも読んでいるのだろう。

―彼女との距離をもっと縮めたい。
―彼女をもっと知りたいし、自分を知ってほしい。

遥が母親の作った手料理を食べ、温かい風呂に入ってソファでうたた寝していることも知らず、圭介は遥の手料理を食べる幸せな夜を思い描いているのだった。

そしてこの後、お互い知らなかった“ある事実”が、2人の前に大きく立ちふさがることになるのだったー。

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実家暮らしの遥と、彼女と恋に落ちた圭介。付き合いが深まる中で知る、「ある事実」とは…?