ホンダ「アコード」(写真:Honda Media Website)

2018年の北米カー・オブ・ザ・イヤー(COTY)は、ホンダ「アコード」が受賞した。これは、2002年以降乗用車部門で15年連続販売台数ナンバーワンを誇るトヨタ自動車「カムリ」を押さえての受賞である。北米COTYを振り返ると、2016年の受賞はホンダ「シビック」、2017年はトラック部門で同じくホンダの「リッジライン」だった。

ひるがえってここ3年の日本のCOTYは、2017-2018がボルボ「XC60」、2016-2017がスバル「インプレッサ」、2015-2016がマツダ「ロードスター」だった。最近のホンダの受賞は2010-2011の「CR-Z」までさかのぼる。もちろん、製品の完成度が高くなければ米国でCOTYは受賞できないが、それでも、なぜこれほどまでにアメリカ人はホンダを評価するのだろうか。

ホンダブランドを多方面から築く

それを探るには、ホンダの生い立ちからさかのぼる必要がある。ホンダはアメリカでのブランドを長きにわたって、それも多方面から築いてきた。


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ホンダは、1948年に創立した。実際にはその2年前の1946年に、前身である本田技術研究所がホンダ創業者の本田宗一郎によって浜松市に設立されている。ホンダ創立の翌1949年には最初の製品であるドリームD型の生産が開始された。改めて、ホンダは2輪で創業したメーカーである。そしてこの2輪が、世界戦略で大きな力となってきた。

創業間もない1952年に、本田宗一郎は次のように述べている。

「一昨年は、わが社は浜松の本田技研であったが、現在では日本のホンダになった。今年こそ世界のホンダにならねばならない。しかも、今年の前半に」

技術開発の面でよく知られる逸話に、英国のマン島TTレースへの参戦がある。創業からほどない1953年に本田宗一郎はレース出場の宣言を行い、そこから7年後の1961年に完全優勝を果たした。さらに4年後の1965年には、4輪のF1レースで初優勝を達成している。トヨタや日産自動車に比べあとから創業したホンダの名が、2輪4輪含め世界にとどろいた。

欧州を中心とした2輪と4輪のレース活動における成果と別に、海外市場への展開は米国を主力とした。米国は第2次世界大戦の勝利国であり、なおかつ戦地となることがなかったことから、20世紀の豊かさの象徴となった。国土の広さと、多くの市民による貪欲な消費が、事業の発展に躍動を与える。

「世界のホンダ」を口にした本田宗一郎に対し、副社長の藤沢武夫は米国進出に狙いを定めた。

ホンダは、カブ号(自転車用補助エンジン)を台湾へまず輸出し、続いてフィリピンと沖縄(復帰前)へも出荷した。東南アジアから世界へという社内の声に対し、藤沢武夫は、「資本主義の牙城・世界経済の中心であるアメリカで商売が成功すれば、これは世界に広がる。逆にアメリカでヒットしないような商品では、世界に通用する国際商品にはなりえない」という持論を述べたと伝えられる。

2輪車の新たな価値を米国人に印象付けた

経営のすべてを本田宗一郎から任されていた藤沢武夫の言葉に従い、1958年にホンダは米国市場へ向けスーパーカブのほか、ドリーム号やベンリィ号の輸出を始めた。

アメリカでオートバイといえば、ハーレーのような大型が一般的で、スーパーカブのように小さな2輪車はほとんど市場のない状況だった。しかし、小さな排気量でもエンジン性能が高く、耐久性があって壊れない。人々の足として日常的な移動に便利という2輪車の新たな価値が米国でも人気を呼ぶことになる。フロントカバーやステップを持つ構造がスカートをはいた女性に適しており、250ドルという低価格も購買意欲を高めた。

同時に、「ナイセスト・ピープル・キャンペーン」を実施し、好評を得た。のちに国内でも、「素晴らしき人、ホンダに乗る」という広告が展開された。映画『イージー・ライダー』で描かれたように、大型2輪車にまつわるアウトロー的な印象に対し、スーパーカブに乗って賢く暮らす2輪車の新たな価値を米国人に印象付けたことは、ホンダブランドそのものへの米国における好感度をおおいに高めたに違いない。

昨2017年10月、スーパーカブは世界累計1億台を達成した。市場を切り開く先兵としてスーパーカブの存在は大きく、2輪事業で創業したホンダの海外展開が、4輪での市場開拓の下地作りを担うことになった。

ホンダに限ったことではないが、ホンダが1950〜1960年代に行った米国市場への挑戦は、ことに米国の西海岸と東海岸地域において新旧含め日本車を多く見かけるきっかけにもなったといえるのではないか。

なおかつ、ホンダには汎用機器があり、汎用エンジンはポンプや発電機など生活や仕事を支えるさまざまな道具に活用できる。1959年に耕運機を市場導入し、続いて発電機や芝刈り機といった製品が充実していくことになる。生活の中に、ホンダという名前が浸透していったであろう。

販売価格が安いことにより消費者の手に届きやすい2輪車や汎用エンジンで、現地の需要を学び、そこからクルマの市場展開へ広げていくホンダ独創の手法は、クルマしか生産・販売していないほかのメーカーにまねのできない戦略だ。

米国における現地生産進出の早さが目立つ

自動車も、いよいよ米国オハイオ州へ現地生産の工場を建設することになった。これも、1979年にまず2輪車の生産から始め、1982年にアコード生産が開始となる。

ホンダの動きに対しトヨタは、1985年に米国とカナダへの工場進出を決め、候補地を探す状況であった。当時、現地生産へ慎重なトヨタの動きが印象に残る。1988年にケンタッキー州の工場からカムリが出荷された。

日産自動車は、1976年にオーストラリアに工場を建設し現地生産を始めている。米国では、1983年にダットサントラック、1985年にサニーの出荷を始めた。それらと比べ、ホンダの米国における現地生産進出の早さが目立つ。


シビック(写真:Honda Media Website)

ホンダには、「小さく生んで、大きく育てる」という地域に根差した海外進出の考え方があり、2輪車の生産設備で進出し、人手を活用した少量生産から始め、従業員が製造に習熟し、市場での販売台数が増えていくにしたがって機械化を進めていく。そして現地でホンダの名前が浸透していくと、4輪車の市場導入も行い、クルマも現地生産化していくのである。

現地生産は、輸入関税や貿易摩擦などの解消に役立つだけでなく、現地での雇用を生み、ブランドが地元に根付くことにも貢献する。米国に限らないが、世界的なホンダファンを生み出す原動力になっているといえるのではないか。

汎用機、2輪車、4輪車といった製品だけが、ホンダブランドを築く要素ではない。ホンダは、1988年に16戦15勝という年間最多勝利記録の偉業を成し遂げていた第2期F1への参戦を1992年で終了すると、米国のインディカー・レースに1994年からエンジン供給という形で参戦し始めた。インディカー・レースの中でも伝統のインディ500は、時速350キロメートル以上の速さでオーバルコースを周回し、500マイル(約800キロメートル)を走りぬく。それはエンジンの威力なくして成しえないレース形態だ。

米国でこれといったモータースポーツ活動をしてこなかったホンダの現地における印象は、スーパーカブ導入以来の賢い選択という意味で、シビックやアコードなど乗用車メーカーとしか消費者の目には映っていなかった。そこにレース活動が加わることで、より魅力あるブランドへ成長させる可能性があるとみられた。

米国でF1はあまり人気がない。それに比べ、超高速で走り続けるインディ500に象徴されるインディカー・レースは、米国人好みの単純でわかりやすくすごさの伝わるスタジアムゲーム的なレースである。

シリーズ中核のインディ500は、1911年に第1回が開催された伝統あるレースで、世界3大レースの1つである。開催前には市街を出走ドライバーがパレードするなど町をあげた祭りの雰囲気がある。出場ドライバーやメーカーがただ勝ち負けを争うだけでなく、参加するすべての人や企業が地域の仲間となって、地元を盛り上げるモータースポーツイベントなのである。インディ500への参加は、ホンダが米国の市民権を得たきっかけといっても過言ではない。

トヨタも1996年からインディカー・レースに参戦していたが2005年で撤退し、2000年から出場している米国のNASCAR(ストックカーレース)に集中するとして現在に至る。

F1同様、フォーミュラカーによるレースは、商品の姿を直接的に見せ勝敗を争うモータースポーツ、たとえば米国のNASCARと異なる。だがエンジン供給という形での参戦において、2輪・4輪・汎用の製品をそろえ、交通手段だけでなく生活を支える世界一のエンジンメーカーというホンダの姿を強く訴えかけるには意味のある参戦形態といえる。

そこが、4輪メーカーとして商品を訴求することを第一とするトヨタや日産との違いである。

米国で知り合った典型的なホンダファン

2輪・4輪・汎用を上手に浸透させながら、市場での信頼を勝ち取るのがホンダであり、私が米国で知り合った高校教師は、Hマークのついたアポロキャップを愛用し、古いながらもアコードに乗り続け、ホンダの大型バイクも所有し、ホンダの芝刈り機を使うという、典型的なホンダファンであった。


リッジライン(写真:Honda Media Website)

ほかにも、会社勤めの一般市民が自分のボートで川や湖で遊ぶことが特別なことではない。ホンダには船外機がある。富裕層は、プライベートジェットで移動することもある。ホンダには、ホンダジェットがある。そのような米国人にとって、2輪・4輪・汎用を展開するホンダは米国市場で根強い人気を保ち続けているのだと思う。