笹山尚人『ブラック職場 過ちはなぜ繰り返されるのか』(光文社新書)

写真拡大

働いている人は、一定の基準を満たせば有給休暇をとることができる。よく知られていることのように思うが、多くの労働相談にのってきた弁護士の笹山尚人氏は「そんな制度があるんですか」と驚く人を多く見てきたという。なぜ労働に関する基本的な知識を持たない人が多いのか。笹山氏は、「教育の段階から労働法を学ぶべき」と提唱する。

※以下は笹山尚人『ブラック職場 過ちはなぜ繰り返されるのか』(光文社新書)の「私たちは労働法を知らない」(20ページ)を再編集したものです。

■私たちは労働法を知らない

ネンジユウキュウキュウカ……何すか、それ?

「ブラック職場」というテーマを詳しく論じる手始めに、まず、私が弁護士になってまだ間もないころに起きた忘れられない体験を記したい。

そのころ私は、青年労働者、非正規雇用労働者が置かれている過酷な現状に対して、彼らの地位向上や権利の実現に向けて何らかの貢献をしたいという気持ちを抱いていて、さまざまな労働組合や青年団体が主催する労働相談のイベントなどに参加していた。

あるとき、私が顧問を務めている労働組合・首都圏青年ユニオンが主催したイベントだったと思うが、「街角での宣伝&労働相談」というのがあって、私はそれに参加していた。新宿駅西口で行ったように記憶しているが、労働組合のメンバーが労働組合とその活動について、チラシを配ったりマイクで宣伝したりしながら、「もし相談がある方は気軽にお声がけください、弁護士さんが相談に乗ってくれます!」という触れ込みで、私は机とパイプ椅子のところに座らされ、相談者が来たら対応するということで待機をしていた。

そのとき、組合員が一人の労働者を連れてきた。20代と思しき男性であった。

彼の相談は、「結婚したいと考えている女性がいて(その女性もそのとき同行していた)、彼女の実家に挨拶に行きたい。でも、遠方なので日帰りは厳しい。そこで、2日休みを取りたいと考えているのだが、会社は休みを取らせてくれない。こういうときは休みを取ることはできないのだろうか」というものだった。

私はまず二人に「おめでとうございます」と申し上げたうえで、彼に質問した。

【私】「あなたは正社員ですか?」
【男性】「はい」
【私】「ということは、フルタイムで働いていますか?」
【男性】「はい。9時から18時までです」
【私】「いつからその会社に勤めているのでしょうか?」
【男性】「そうですね、そろそろ4年くらいになりますか……」

そこで私は彼に言った。

【私】「じゃあ、有休取ったらいいじゃないですか」
【男性】「へ?」
【私】「(省略したのがわからないのかと思って)有休、つまり年次有給休暇です。それを取ればいいと思うんですけどね」
【男性】「……ネンジユウキュウキュウカ、ですか? 何すか、それ?」

私は、ずっこけそうになった。

ご承知の方も多いと思われるが、年次有給休暇とは、(フルタイム労働の場合)就業を開始して半年間、労働日の8割以上に就労した労働者が1年に10日間以上の休暇を取得することができ、しかもその休暇については有給、つまり賃金が発生するという制度である(労働基準法第39条)。パートタイム労働者の場合であっても、就労する労働時間に対応して日数は減少するものの、有給休暇を取得できる日数が付与されることに違いはない。

私は彼との会話から、男性がその条件を満たしていることがわかったので、年次有給休暇を取得したらどうかと助言した。しかし、彼はその制度を知らないと言う。

いや、彼ばかりではない。同行している女性も私の説明に深く頷き、「良かったねー、これで大丈夫だよ!」と二人は盛り上がっていた。そして「ありがとうございました!」と私に大変な感謝を示して帰っていった。法律相談としては私はその任を全うしたといえるが、男性も女性も、そのときまで年次有給休暇の存在を知らなかったというわけだ。

私にとって年次有給休暇制度とは、労働法上の制度のうち、「イロハ」の「イ」に属する知識だと思っていたので、カップルがそのことを知らず、真顔で驚き、「そんな権利があるんだー、知らなかったねー」と頷き合うシチュエーションにこそ、ショックを受けた。この出来事は、その後も似たような場面に何度も遭遇することになる最初の一例だったので、今でも忘れられない出来事となっている。

■労働者が知らなければ「絵に描いた餅」

そう、この一例を皮切りに、私はその後、数限りなく、「えー、それ、知らないんだ……」という事例に次々とぶつかることになる。

・いったん約束した賃金を勝手に減額させることはできない。
・労働者は、決められた労働時間以外の時間に労働に従事する義務は原則としてない。
・法定の労働時間を超えて働いたら残業代を請求できる。
・仕事上ミスをしたからといって、そのことに対して個人的に責任を取って、会社から求められた賠償に応じる義務はただちに発生しない。
・辞めてほしいと言われたからといって、それに対して応える義務はない。
・解雇されたからといって泣き寝入りする必要はない。その理由をただし、理由を書面にしてもらう。その書面の内容がきちんとしていなかったら解雇は違法となる。
・派遣労働者は、就業を始める前に就業条件明示書をもらい、自分の仕事内容や、問題があったとき相談する相手が誰なのか、確認しておく必要がある。
・自分が参加している労働組合から会社に対して自分の労働条件について団体交渉を求めた場合、会社に話し合いを拒むという選択肢はない。たとえ、組合員が自分一人であっても。

こうした知識はほんの一例に過ぎないが、多数の労働相談を受けた際に、アドバイスとともに労働者たちにお伝えしていった内容である。そして、これらの内容について、多くの労働者は全く知識がなく、「そうなんですか!」と闇夜が晴れたような顔で返事をしていた。

どうしていいのか全くわからないという状態の労働者のみなさんに光明を見出すことのお手伝いができたのだから、それ自体はとても嬉しいことではあった。しかし、なぜこのような基本的な知識を労働者たちは知らないのか、ということには疑問を覚えざるを得なかった。

労働法は、労働者の権利と生活を守るところにその基本的な役割がある。しかし、保護の対象としている当の労働者たちがその権利を知らないということでは、法は絵に描いた餅となる。

なぜか? その理由は簡単である。

私たちには、労働法を学ぶ機会がなかった。ただ、それだけのことである。

■学校でも家庭でも学ぶ機会なし

私自身は1970年の生まれだが、これまでの学校教育、とくに中学・高校の公民を思い返してみて、法について学んだ記憶は、日本国憲法の基本的な成り立ちについてのみ、である。労働法については、学校教育の中では教育を受けた機会がなかったと思う(記憶に基づくので断言はできない)。

では、そのほかの生活の中ではどうか。

両親から、労働法の成り立ちや意義、その内容について伝えられたことはない。親戚や地域の人たち、塾などでも。

おそらく私の体験は、現代の日本人の標準的な体験ではないかと思われる。

つまり、私たちは、社会に出る以前に、労働者としての基本的素養として、労働法を学ぶという体験を持たないまま実社会に投げ出されていることになる。

学ぶ機会がないから、知らない。実に単純明快である。

私は、この、社会に出る以前にまとまって労働法を学ぶ機会がないということについて、2007〜2008年ごろから問題意識を持って社会に提起してきた。2009年には、学校現場で労働法を学ぶことの大切さについて、書籍を通じて訴えた(『労働法はぼくらの味方!』岩波ジュニア新書)。また、学校教育の現場での副教材として、『学校で労働法・労働組合を学ぶ』(共著、きょういくネット)という出版にも関わった。

このころから、教育現場には変化が起き始めたと思われる。

実際、高校や大学の教育プログラムの中で、労働法について講義をしてほしいという依頼を私は頻繁に受けるようになった。近頃は、「ブラック企業の特徴」などについても教えてほしいという依頼を受ける機会も増えている。

■1回限りでは伝えきれない

このこと自体は、とても良いことである。卒業生をブラック企業に送り出して彼らをつぶすようなことがあってはならない──教育の現場からの、とても健全な問題意識に基づく依頼だと思う。

しかし、こうした取り組みだけではまだまだ足りない。

なぜなら、こうした教育プログラムはほとんどの場合、1回限りで、しかも2時間程度の特別講義だからだ。これでは、労働法の考え方や意味などは伝えられても、法の具体的内容を詳細に伝えるのには時間が足りない。せめて、2時間の講義を3回くらいやらせてもらえれば、相当の内容が伝えられると思う。

中には一部の教員たちの先進的な取り組みとして、具体的な事例に基づいて生徒たちに考える機会を設ける、自分のアルバイト先の契約書や就業規則を持ってこさせて、労働法と照らし合わせるといった授業を社会科で試みている例はあるものの、これらは一部にとどまっているのが現状だ。

----------

笹山尚人(ささやま・なおと)
弁護士。1970年、北海道札幌市生まれ。1994年、中央大学法学部卒業。2000年、弁護士登録。第二東京弁護士会会員。東京法律事務所所属。弁護士登録以来、青年労働者や非正規雇用労働者の権利問題、労働事件や労働運動を中心に扱い、活動を行っている。著書に、『人が壊れてゆく職場』(光文社新書)、『労働法はぼくらの味方!』(岩波ジュニア新書)、共著に、『仕事の悩み解決しよう!』(新日本出版社)、『フリーターの法律相談室』(平凡社新書)などがある。

----------

(弁護士 笹山 尚人)