「ごきげんよう」終了で高まるコサキンへの期待 「違うタイプだからうまくいく」と関根勤は語った
四半世紀以上続いたコサキンのラジオが2009年3月に終了したときは大ニュースだった。当時、「深夜の喋り手をやってて、いずれどうなってくんだろうって時に『コサキン、今○○歳だけどずっとやってんだぜ』っていうことのありがたさったらないわけ」とコメントしたのは伊集院光である。
一線級のタレントであり続け、当たり前のようにテレビに出続ける小堺&関根。しかし「本当の自分を出せるのはラジオ(コサキン)だけ」という関根による告白は、2人のラジオを聴いたことのある者ならばあまりにも腑に落ちる。
コサキンラジオ誕生の経緯については、『ライオンのごきげんよう』(2016年3月30日放送)にゲスト出演した関根が回顧してくれている。
1981年、当時TBSアナウンサーだった松宮一彦氏がパーソナリティを務める月〜金の帯番組『夜はともだち』(TBSラジオ)は人気絶頂であった。しかし松宮アナが、木曜生放送の『ベストテン』に“追っかけマン”として出演することになり、この木曜のみを当時27歳の関根と25歳の小堺が担当することになる。
しかし、一向に人気が高まらない。何しろ、他曜日には約200通も送られてくるはがきが、木曜だけは毎週2枚なのだ。
「一か月くらいやって、僕、つらくてやめたくなっちゃったの。でも、こんな若手で素晴らしい枠をいただいて『やめさせてください!』なんて言えないわけですよ。僕、あんまり苦しいんで『小堺君、クビになるように仕向けよう』って言って、その時に小堺君が『そうしよう』って言ってくれたの」(関根)
異常に追い込まれていた2人は、普段行っていた“意味ねぇ〜会話”を番組でも展開するようになる。「おじさんガムちょうだい」「俺は不死身だ、わぁ〜バァ〜」。こんなことばかり言い続け、「思いっきりやったけどダメでした!」という態度で許してもらおう。心中覚悟の発狂である。
「そしたらドンドンはがき増えて、結局27年半やったんです」(関根)
一時期、BSにてコサキンによる冠番組は放送されていたものの、それもすでに終了した。そして、今年3月の『ごきげんよう』終了である。ここにきて、またしてもコサキン復活の機運は高まっているような気がする。
こんなタイミングだからこそ、改めて2人のコンビ結成の流れを書籍・ソフトを参考に掘り起こしてみたいと思う。
TBSラジオの番組本<http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4401614178/ex-news-22>『コサキンの一機と勤』によると、両者の芸能界入りのきっかけはTBSで放送されていた『ぎんざNOW!』の「シロウトコメディアン道場」である。初代チャンピオンは、千葉真一や林家三平、小池朝雄らのものまねを持ちネタとする関根勤。田村正和や水谷豊、淀川長治らのものまねを持ちネタとする小堺一機は、第17代チャンピオン。
この2人が初対面したときの会話は、ファンの間でも語り草だ。『ぎんざNOW!』で小堺が勝ち抜いているさなか、関根は同番組の一曜日の司会を務めていた。
「すぐ自己紹介しました。『小堺です。プロでやりたいです』。普通の人なら『がんばれ』とか当たり障りないこというじゃないですか。ところが、関根さんは違ってた。『この世界は、下積みがないとツラいよ』。よっぽど下積みなくテレビに出てツラい思いをしてたんでしょうね。ま、実際、その後に二人揃って下積みするわけだけど」(<http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/ 4938733331/ex-news-22>『関根勤は天才なのだ』/山中伊知郎 小堺一機インタビューより)
一方、関根の小堺に対する初印象はこうだ。
「小堺くんがテレビで勝ち抜いてるとこ見たんですけど、ハンダースとか他の人達っていうのは勢いとか顔が面白いとかでね、ちょっと荒れてたんですけど、小堺くんのは、何て言うんですか、ソフィスケイテッド? ネタが次へトロッ、トロッとね。しゃべりがうまくてマイルドなんですよ。で、21でしょう。大学3年生で。だから、あー彼も21で出て来て俺に似てるなーって、面白いなーってね」(『コサキンの一機と勤』より)
1980年に、小堺は浅井企画へ入社。当時、カマキリ拳法のみを武器にテレビ界で奮闘していた関根もだいぶ暇になっており、2人の仲は急速に深まる。そのうち、放送作家の大岩賞介氏に「若いモンがふたりしてブラブラするな。それくらいなら組んで勉強会でもやればいいじゃないか」とアドバイスされてしまう。
「でも、お互いひとりで売れたいし、コンビなんか組みたくなかったから、『やっぱりイヤです』って改めて大岩さんのところに言いにいくと、『そんなに力まなくていいんだ。クッキー食べるくらいの気持ちでやれば』。その言葉で、急に気が楽になりましたね。『あ、クッキー食べるくらいでいいんだ』って」(『関根勤は天才なのだ』/山中伊知郎 小堺一機インタビューより)
しかし、2人の意に反して話は急展開していく。浅井企画の浅井社長が「『お笑いスター誕生!』10週勝ち抜かさせる! 第二のコント55号にする」と息巻いたのだ。
2人は浅井企画が伊豆・伊東に所有しているマンションにカンヅメ状態にされ、合宿を強要された。しかし、やる気がないのでいいネタが生まれるわけもない。
「その頃のボクって生意気だったんですね。だいたい『お笑いスタ誕』て、古いタイプのお笑いの人たちが主に審査員やってた。『あんな面白くない人に審査されたくない』って気持ちもあったし、10週勝ち抜いた人たちが泣いたりするのもイヤだったんです。どんなに苦労しても、お笑いタレントなら人前では笑ってなきゃ」(『関根勤は天才なのだ』/山中伊知郎 小堺一機インタビューより)
『ライオンのごきげんよう』最終回を笑顔のままやり遂げた小堺の姿が、オーバーラップしてくる。
関根勤が浅井企画へ入社した頃、萩本欽一は関根と会うのを拒んでいたという。
「シロートから出てきて、カマキリとかやってるヤツだって聞いてたんで、『そんなのとは会いたくない』って、ずっと会わなかった。(中略)『5年たっても、まだウチにいるようなら会ってみよう』、そんな気持ちだったね」(『関根勤は天才なのだ』/山中伊知郎 萩本欽一インタビューより)
実際、萩本がコサキンに会ったのは関根が浅井企画に入り7年ほど経った頃だという。
「会ってみて、関根がカマキリのイメージとは違う、素直で礼儀正しいヤツだってわかったんだね。それで、こいつは何とかしてやんなきゃって思ったの。その時だったかな、『まず潜れ』って言ったのは。関根も小堺も、クラスの人気者がそのままテレビに出て、つまんないシロートの姿を晒してる。それより今大切なのは、テレビから離れて、自分の力を蓄えることだ、ってアドバイスしたわけ」(『関根勤は天才なのだ』/山中伊知郎 萩本欽一インタビューより)
こうして2人は下北沢のライブハウス「スーパーマーケット」で定期的にライブを開くようになり、腕を磨いていった。
「あの、スーパーマーケットの舞台が関根さんとボクを作ったって、はっきり思います」(『関根勤は天才なのだ』/山中伊知郎 小堺一機インタビューより)
『欽どこ』のレギュラーになるも、どうにも番組が展開する芝居へうまく溶け込めない2人。そこで1982年10月、「クロコとグレコ」なるコーナーが誕生した。番組全体の流れとはほとんど関係しない、2人によるコントタイムだ。ここで展開されるネタは、ほとんどが「スーパーマーケット」で“潜って”いた頃に培われたものばかりである。
2005年に発売されたDVD<http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/ B0007N33KY/ex-news-22>『欽どこ 「クロ子とグレ子のどこまでやるの ?」』の副音声にて、2人は当時の奮闘ぶりを語っている。若き日の自分たちの姿を見るや、いきなりひどい。
関根 小堺君、いい男だなぁ。やっぱり、横澤さんが帯番組指名するのもわかる。
小堺 な〜にをっ(笑)。
関根 ファンの方は抗議してほしいくなんだけど、フミヤに似てる。
たしかにこの時点で人気が先行していたのは、明らかに小堺の方だった。
「彼がどんどん先行してくれるから、ああそうか、ああいう風にやればいいのかって後ろから追う感じ。霧の峠道を、小堺クンの車のテールランプが見えるようにね。だから、走りやすいんですよ。追いつき、追い抜き? そう、お互いに調子がいい時に先行すればいいんじゃないですか」(『関根勤は天才なのだ』/山中伊知郎より、関根が)
2人のキャラクターの違いと相性の良さを示すエピソードも、このDVDでは明かされている。
関根 ウケない回はお互い見つめ合って「どうする? 今日はやめよう」って目を俺はするんだけど、小堺君は「ダメだ!」って目をするんだよぉ。「一回ウケなきゃ、帰れない!」って。俺、その時にね「小堺君はいい意味でプライドの高い人だな」と思った。
小堺 アッハッハッハ!
関根 俺はすぐね、末っ子だから「来週がんばればいいや」って、そこを帰ろうとする。時と場合によっては小堺君の方が正解だったり、俺の方が正解だったり、色々あるんだけど。
小堺 両方一緒だと、そりゃ大変だよね。
関根 俺もプライド高かったらさ、大将出てくるよ。「いつまでつまんないのにやってるんだ」って(笑)。
小堺 実際あったもん、大将出てきたこと。「いつまでやってるんだ」って(笑)。
関根 それか両方あきらめるタイプだと、途中で帰ってきておろされちゃう。
ファンならずともこの2人によるコンビネーションは必見だと思うのだが、今後その機会はあるのだろうか?
「テレビでもコサキンがメーンの番組を何本もやらせてもらいました。ただ、残念だけど、これは成功したって番組、ありませんでしたね。やっぱり、テレビとラジオやライブって、メディアそのものの性質が違うんでしょう」(『関根勤は天才なのだ』/山中伊知郎 小堺一機インタビューより)
そんなこと言わないで、どこかの局が始めてくれないかしら……。
(寺西ジャジューカ)
一線級のタレントであり続け、当たり前のようにテレビに出続ける小堺&関根。しかし「本当の自分を出せるのはラジオ(コサキン)だけ」という関根による告白は、2人のラジオを聴いたことのある者ならばあまりにも腑に落ちる。
コサキンラジオ誕生の経緯については、『ライオンのごきげんよう』(2016年3月30日放送)にゲスト出演した関根が回顧してくれている。
1981年、当時TBSアナウンサーだった松宮一彦氏がパーソナリティを務める月〜金の帯番組『夜はともだち』(TBSラジオ)は人気絶頂であった。しかし松宮アナが、木曜生放送の『ベストテン』に“追っかけマン”として出演することになり、この木曜のみを当時27歳の関根と25歳の小堺が担当することになる。
しかし、一向に人気が高まらない。何しろ、他曜日には約200通も送られてくるはがきが、木曜だけは毎週2枚なのだ。
「一か月くらいやって、僕、つらくてやめたくなっちゃったの。でも、こんな若手で素晴らしい枠をいただいて『やめさせてください!』なんて言えないわけですよ。僕、あんまり苦しいんで『小堺君、クビになるように仕向けよう』って言って、その時に小堺君が『そうしよう』って言ってくれたの」(関根)
異常に追い込まれていた2人は、普段行っていた“意味ねぇ〜会話”を番組でも展開するようになる。「おじさんガムちょうだい」「俺は不死身だ、わぁ〜バァ〜」。こんなことばかり言い続け、「思いっきりやったけどダメでした!」という態度で許してもらおう。心中覚悟の発狂である。
「そしたらドンドンはがき増えて、結局27年半やったんです」(関根)
「第二のコント55号にする!」という事務所の方針を拒絶した小堺
一時期、BSにてコサキンによる冠番組は放送されていたものの、それもすでに終了した。そして、今年3月の『ごきげんよう』終了である。ここにきて、またしてもコサキン復活の機運は高まっているような気がする。
こんなタイミングだからこそ、改めて2人のコンビ結成の流れを書籍・ソフトを参考に掘り起こしてみたいと思う。
TBSラジオの番組本<http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4401614178/ex-news-22>『コサキンの一機と勤』によると、両者の芸能界入りのきっかけはTBSで放送されていた『ぎんざNOW!』の「シロウトコメディアン道場」である。初代チャンピオンは、千葉真一や林家三平、小池朝雄らのものまねを持ちネタとする関根勤。田村正和や水谷豊、淀川長治らのものまねを持ちネタとする小堺一機は、第17代チャンピオン。
この2人が初対面したときの会話は、ファンの間でも語り草だ。『ぎんざNOW!』で小堺が勝ち抜いているさなか、関根は同番組の一曜日の司会を務めていた。
「すぐ自己紹介しました。『小堺です。プロでやりたいです』。普通の人なら『がんばれ』とか当たり障りないこというじゃないですか。ところが、関根さんは違ってた。『この世界は、下積みがないとツラいよ』。よっぽど下積みなくテレビに出てツラい思いをしてたんでしょうね。ま、実際、その後に二人揃って下積みするわけだけど」(<http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/ 4938733331/ex-news-22>『関根勤は天才なのだ』/山中伊知郎 小堺一機インタビューより)
一方、関根の小堺に対する初印象はこうだ。
「小堺くんがテレビで勝ち抜いてるとこ見たんですけど、ハンダースとか他の人達っていうのは勢いとか顔が面白いとかでね、ちょっと荒れてたんですけど、小堺くんのは、何て言うんですか、ソフィスケイテッド? ネタが次へトロッ、トロッとね。しゃべりがうまくてマイルドなんですよ。で、21でしょう。大学3年生で。だから、あー彼も21で出て来て俺に似てるなーって、面白いなーってね」(『コサキンの一機と勤』より)
1980年に、小堺は浅井企画へ入社。当時、カマキリ拳法のみを武器にテレビ界で奮闘していた関根もだいぶ暇になっており、2人の仲は急速に深まる。そのうち、放送作家の大岩賞介氏に「若いモンがふたりしてブラブラするな。それくらいなら組んで勉強会でもやればいいじゃないか」とアドバイスされてしまう。
「でも、お互いひとりで売れたいし、コンビなんか組みたくなかったから、『やっぱりイヤです』って改めて大岩さんのところに言いにいくと、『そんなに力まなくていいんだ。クッキー食べるくらいの気持ちでやれば』。その言葉で、急に気が楽になりましたね。『あ、クッキー食べるくらいでいいんだ』って」(『関根勤は天才なのだ』/山中伊知郎 小堺一機インタビューより)
しかし、2人の意に反して話は急展開していく。浅井企画の浅井社長が「『お笑いスター誕生!』10週勝ち抜かさせる! 第二のコント55号にする」と息巻いたのだ。
2人は浅井企画が伊豆・伊東に所有しているマンションにカンヅメ状態にされ、合宿を強要された。しかし、やる気がないのでいいネタが生まれるわけもない。
「その頃のボクって生意気だったんですね。だいたい『お笑いスタ誕』て、古いタイプのお笑いの人たちが主に審査員やってた。『あんな面白くない人に審査されたくない』って気持ちもあったし、10週勝ち抜いた人たちが泣いたりするのもイヤだったんです。どんなに苦労しても、お笑いタレントなら人前では笑ってなきゃ」(『関根勤は天才なのだ』/山中伊知郎 小堺一機インタビューより)
『ライオンのごきげんよう』最終回を笑顔のままやり遂げた小堺の姿が、オーバーラップしてくる。
萩本欽一がコサキンへ指令 「まず潜れ」
関根勤が浅井企画へ入社した頃、萩本欽一は関根と会うのを拒んでいたという。
「シロートから出てきて、カマキリとかやってるヤツだって聞いてたんで、『そんなのとは会いたくない』って、ずっと会わなかった。(中略)『5年たっても、まだウチにいるようなら会ってみよう』、そんな気持ちだったね」(『関根勤は天才なのだ』/山中伊知郎 萩本欽一インタビューより)
実際、萩本がコサキンに会ったのは関根が浅井企画に入り7年ほど経った頃だという。
「会ってみて、関根がカマキリのイメージとは違う、素直で礼儀正しいヤツだってわかったんだね。それで、こいつは何とかしてやんなきゃって思ったの。その時だったかな、『まず潜れ』って言ったのは。関根も小堺も、クラスの人気者がそのままテレビに出て、つまんないシロートの姿を晒してる。それより今大切なのは、テレビから離れて、自分の力を蓄えることだ、ってアドバイスしたわけ」(『関根勤は天才なのだ』/山中伊知郎 萩本欽一インタビューより)
こうして2人は下北沢のライブハウス「スーパーマーケット」で定期的にライブを開くようになり、腕を磨いていった。
「あの、スーパーマーケットの舞台が関根さんとボクを作ったって、はっきり思います」(『関根勤は天才なのだ』/山中伊知郎 小堺一機インタビューより)
ウケない舞台から降りたくなる関根、それを許さない小堺
『欽どこ』のレギュラーになるも、どうにも番組が展開する芝居へうまく溶け込めない2人。そこで1982年10月、「クロコとグレコ」なるコーナーが誕生した。番組全体の流れとはほとんど関係しない、2人によるコントタイムだ。ここで展開されるネタは、ほとんどが「スーパーマーケット」で“潜って”いた頃に培われたものばかりである。
2005年に発売されたDVD<http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/ B0007N33KY/ex-news-22>『欽どこ 「クロ子とグレ子のどこまでやるの ?」』の副音声にて、2人は当時の奮闘ぶりを語っている。若き日の自分たちの姿を見るや、いきなりひどい。
関根 小堺君、いい男だなぁ。やっぱり、横澤さんが帯番組指名するのもわかる。
小堺 な〜にをっ(笑)。
関根 ファンの方は抗議してほしいくなんだけど、フミヤに似てる。
たしかにこの時点で人気が先行していたのは、明らかに小堺の方だった。
「彼がどんどん先行してくれるから、ああそうか、ああいう風にやればいいのかって後ろから追う感じ。霧の峠道を、小堺クンの車のテールランプが見えるようにね。だから、走りやすいんですよ。追いつき、追い抜き? そう、お互いに調子がいい時に先行すればいいんじゃないですか」(『関根勤は天才なのだ』/山中伊知郎より、関根が)
2人のキャラクターの違いと相性の良さを示すエピソードも、このDVDでは明かされている。
関根 ウケない回はお互い見つめ合って「どうする? 今日はやめよう」って目を俺はするんだけど、小堺君は「ダメだ!」って目をするんだよぉ。「一回ウケなきゃ、帰れない!」って。俺、その時にね「小堺君はいい意味でプライドの高い人だな」と思った。
小堺 アッハッハッハ!
関根 俺はすぐね、末っ子だから「来週がんばればいいや」って、そこを帰ろうとする。時と場合によっては小堺君の方が正解だったり、俺の方が正解だったり、色々あるんだけど。
小堺 両方一緒だと、そりゃ大変だよね。
関根 俺もプライド高かったらさ、大将出てくるよ。「いつまでつまんないのにやってるんだ」って(笑)。
小堺 実際あったもん、大将出てきたこと。「いつまでやってるんだ」って(笑)。
関根 それか両方あきらめるタイプだと、途中で帰ってきておろされちゃう。
ファンならずともこの2人によるコンビネーションは必見だと思うのだが、今後その機会はあるのだろうか?
「テレビでもコサキンがメーンの番組を何本もやらせてもらいました。ただ、残念だけど、これは成功したって番組、ありませんでしたね。やっぱり、テレビとラジオやライブって、メディアそのものの性質が違うんでしょう」(『関根勤は天才なのだ』/山中伊知郎 小堺一機インタビューより)
そんなこと言わないで、どこかの局が始めてくれないかしら……。
(寺西ジャジューカ)