徳川家康のあの有名な肖像画にハッタリ疑惑

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教科書に載っていた歴史上の人物の肖像が、その後の研究によって実は本人を描いたものではなかったと判明することはわりとよくある話である。思いつくだけでも、聖徳太子、源頼朝、足利尊氏などの例が浮かぶ。


これらと似たような話で、最近になって徳川家康の有名な「しかみ像」にも疑惑が持ち上がっている。この画像は、尾張徳川家に伝わってきた名品を収める徳川美術館(名古屋市)に所蔵されているもので、甲斐の武田信玄に三方原の戦い(1572年)で大敗した家康が、顔をしかめた姿を絵師に描かせ、自分への戒めとして生涯座右としたと伝えられている。「徳川家康三方ヶ原戦役画像」との正式な名称もこの話を踏まえたものだ。


だが、今年8月、「しかみ像」は三方原の戦い後に家康が自ら描かせたものではないという新説が発表された。これは、徳川美術館の原史彦学芸員による説だ。

「読売新聞」中部版2015年10月24日付の記事によれば、この画像が尾張徳川家にもたらされたのは、江戸中期の1780年、9代目当主の徳川宗睦(むねちか)に紀伊徳川家から嫁いだ従姫(よりひめ)が嫁入り道具として持参したときだ。従姫が亡くなったあと、1805年には尾張家は家康ゆかりのものを収める「御清御長持(おきよめおんながもち)」に収められた。だが、江戸時代にはこの画像と三方原は結びつけられてはいなかったという。

表現方法などからしても、三方原の戦いよりもあと、江戸時代に描かれたもので、その表情も悔しがっているのではなく、当時の絵によく見られた仏教的な怒りの表情だろうと、前出の原学芸員は推測している。

画像と「三方原」を結びつけたのは誰か?


では、一体どうしてこの画像と三方原が結びついたのか? 前出の読売記事によれば、徳川美術館が開館した翌年の1936年1月、同美術館の創設者で尾張徳川家19代目当主・徳川義親(よしちか。1886〜1976)が地元新聞の対談で話したことがきっかけらしい。

その対談で義親は、しかみ像は尾張家初代の徳川義直が父・家康の苦難を忘れないよう描かせたものと説明していた。ほかならぬ尾張家の当主が話したことだけに、ここからしかみ像は三方ヶ原戦没画像として定着、さらに72年に刊行された徳川美術館収蔵品図録で、画像は義直ではなく家康が自ら描かせ、生涯座右を離さなかったと記されたことがそのまま事実として広まってしまったようだ。

《原さんは「義親氏は厳密な歴史性からこの逸話を持ち出したのではなく、開館したばかりの美術館を宣伝するキャッチコピーのような感じで、サービス精神から言ったのではないか。それがいつの間にか様々なメディアで流れることで定説化していった」と話す》(「読売新聞」前掲記事)

記事中の学芸員の発言に思わずニヤリとしてしまった。その手のリップサービス、はったりがいかにも義親公らしいと思ったからだ。

徳川義親には「トラ狩りの殿様」の異名がある。これは大正時代、彼が持病の転地療養のため渡ったシンガポールでトラを狩猟したことに由来する。もっとも、このトラ狩りは義親が以前北海道でクマ狩りをしていたことから、ある新聞に「シンガポールに行くなら今度はマレー半島のトラ狩りだろう」と勝手な憶測記事を書かれたせいで、行きがかり上やるはめになったというのが真相らしい。後年、理髪業の組合から会長就任を打診された義親は、「私はトラ狩りの殿様だが、それでもかまわないか」とジョークで返したという話も残る(本田靖春『現代家系論』)。

このほかにも義親はエピソードに事欠かない。戦前の右翼のクーデター計画である三月事件に資金提供したかと思えば、戦後は社会党の結党のため奔走している。名古屋市長選に出馬して落選したこともあった。晩年には、中部圏に皇居を移すなんてことも提案している。

学者としての一面も持ち、東大の学生時代より尾張家所有の木曽山林政史を研究し、1923年には木曽林政史研究室を設立した。太平洋戦争中には、日本軍が占領したシンガポール(日本占領下では昭南島と改称)博物館長・植物園長に就任し、イギリス人の研究者とともに戦火から所蔵資料を守ったとの話も残る。

もちろん義親の政治活動や戦時中のマレーでの行動にはそれなりの思惑があったのだが、ここで詳しくは触れない。そもそも三月事件が未遂に終わったように、彼の政治活動はほとんど実を結ぶことはなかった。これについては彼の政治力の弱さの表れとする見方もある(小田部雄次『徳川義親の十五年戦争』)。

尾張家の財政改革から生まれた美術館


一方では義親は、大正末から昭和初期にかけて多くの旧大名家(明治維新後、華族となっていた)が経済的に没落するなかで、尾張家の財政改革を進めて成功し、「理財の殿様」と呼ばれた。財団法人徳川黎明会の設立(1931年)および黎明会の運営する徳川美術館の開館(1935年)もそうした財政改革の一環だった。

それは当時、困窮した華族が所有する財宝を売りに出すケースが増えていたことから、義親が「ぼくの家でもそうならないという保証はない」と危機感を覚えたことがきっかけだった。悩んだ末に彼は、財団法人を設立してそこに尾張徳川家の財宝を寄付することを思いつく。

この財団法人設立は大名・華族のあいだで物議をかもしたという。しかし敗戦後、各大名家は所有する財宝に高率の財産税がかけられたため、軒並み手放さざるをえなくなった。そのなかにあって、尾張徳川家だけはすでに所有する名品をすべて財団法人に移していたため、散逸させずに済んだのである。

例の「しかみ像」も、あるいは国宝「源氏物語絵巻」も、現在にいたるまで徳川黎明会によって保存されてきた。「源氏物語絵巻」は現在、徳川美術館の開館80周年を記念して同館の所蔵する三巻が10年ぶりに一挙公開中だが、こうしてまとめて見られるのも徳川義親のおかげといえる。なお、今回の絵巻公開は今週日曜、12月6日まで。この機会をお見逃しなく!
(近藤正高)