豊島ミホ『大きらいなやつがいる君のためのリベンジマニュアル』(岩波文庫)。840円+税。表紙画・挿画も著者。

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職場や学校の人間関係が息苦しいと思ったことはないだろうか?
僕はある。いまはそうでもないけど。
それどころか、学校や家庭や職場や、つまり世界全般というものが、「息苦しくて当たり前」なときも、かつてはあった。
あまりに「当たり前」なことと思っていたものだから、それが「息苦しい」んだとすら自覚できなかった。

そういうときにはしばしば、日常の人間関係に、苦手な人たちがいる。
彼らは直接・間接に、こちらを害してくる。
その人たちはしばしば、この自分「なんか」よりずっと恵まれていて、生き生きと幸せに、この息苦しい世界を渡っている(ように見えてしまう)。
その人たちを見ていると、自分が間違っているのではないか、自分という人間には価値がないのではないか、という気分になる。
果てしなく卑屈で自責的になってしまう。
と同時に、そんな世界を呪いたくもなる。
そういうとき、どうしたらいいのか。

「自分にとって有害なやつ」にあったときは


豊島ミホさんは、約6年ぶりの新刊『大きらいなやつがいる君のためのリベンジマニュアル』(岩波ジュニア新書)のなかで、下の方針を提案している。
〈1 : 自分にとって有害なやつは「自分にとって有害なやつ」以上でも以下でもないと考える。
2 : なぜ害されたか、心のなかで分析しそうになったら止める。
3 : 悲しければ泣く。つらいと言える相手がいたら言う。
4 : 相手を変えようと思わない。相手と自分との接点だけを切る〉

著者は2002年に早稲田大学在学中に小説『青空チェリー』でデビューし、2008年までに小説・エッセイ併せて15作を刊行した。2005年の『檸檬のころ』(幻冬舎文庫/Kindle)は2007年に榮倉奈々主演で映画化された。

こう書くと順風満帆に見える。けれど、豊島さんのなかではそうではなかったようだ。
2008年末に彼女は雑誌のエッセイで、小説家を廃業するという宣言(と読める文章)を発表した。
翌2009年にどどっと残り4冊の本を出し、計19タイトルの本を残して、豊島さんは秋田県に帰郷した。
『大きらいなやつがいる君のためのリベンジマニュアル』には、そのあたりの事情が、豊島さんの高校時代にさかのぼって書かれている。

学校で受けた傷は、卒業してなお人を拘束することがある


高2のクラス替えで、瞬時にして豊島さんは、いわゆるスクールカーストの〈下〉に置かれたことを察知したという。
やがて、保健室登校の日々が始まる。

高校までの世間と、それ以降の世間は、すいぶん違う。
だから、高校を卒業しちゃえば、煩わしい人間関係をいったんリセットすることができる。原理的には。

ところが、じっさいはなかなかそうはいかない。
豊島さんが言うとおり、高校までの人間関係で傷つき、自尊心が低くなってしまった人は、それまでに作り上げたやや偏った世界観をもとに、その後も行動してしまう。
なぜなら、自分が負った傷、恨み、憎しみはそのまま保持していて、ルサンチマンに変わっていくからなのだ。
これはほんとに程度問題で、大なり小なりだれにでもこういう傾向はありうると思う。
豊島さんは、なにかで「他者に認められる」ことによって自分の価値を証明するしかないと考えた。そこで、偏った「がんばりかた」をするようになる。

人に認められようとすると、自分を追いつめてしまう


〈偽りの自信はわりと簡単に積み重なるのです。自分がやりたいことではなく、誰かが認めてくれることのうち、ある程度自分に適性がある物事を選べば〉

豊島さんは、作家デビューはしたが、そのあと就職活動もした。就職活動でも偏った「がんばり」をやってしまい、あるとき気づく──
〈「私にとっての就活は、この宗教〔オウム真理教〕と何ら変わらない」ということに、突然気付いてしまった〔…〕。
そこに行けば、価値を認められる。あなたこそが力だ、世界を変えることができると言われる。だから私は就活をしている……〉

作家で一本立ちしていくと決めたときにも、自分がほんとうにやりたいことを抑圧して、「なにをすれば承認されるか」を優先してしまう。その生きかたが、豊島さんを追い詰めていく。
愛されたくて「できる子」を演じてる子、怨恨を抱えて文学を志した人が本書を読めば、正気に返るかもしれない──

〈〔当時の〕私はデビュー作の売れ行きや評判を見て、それ以降「自分ルール」でなく「相手ルール」で動こうと決めています。とりあえずこの業界で結果を出すため、他者から認められるために、「相手ルール」に合わせている状態です〉(太字は原文)
〈やりたいことをやって、喜んでもらえるならば、それに越したことはありません。しかしその順序が逆転した時、つまり、相手に認められるために、自分の行動を選択した場合……実は結構厄介な事態が待っています〉

〈憎しみの底〉で著者を撃った2冊の本


文学やアートやコンテンツ産業、ざっくり言って「表現」の世界は、懐が広い。
ネガティヴ感情を表現の動機とする人も、全員受け入れちゃうところがある。
しかも、それでメジャーになるケースも稀にある。太宰やマイケル、死後の評価だけどゴッホとか啄木もか?
不幸な人が不幸なまんま評価されちゃう一発逆転(逆転なのか?)は、たしかにあるみたい。
でもそういうのはホントにレアなケースだ。

ボロボロの状態で〈憎しみの底〉を打った豊島さんは、偶然手に取ったひぐちアサ『ヤサシイワタシ』(講談社/Kindle)(の2巻)とよしもとばなな『彼女について』を読んで、古い自分を殺し、新しい自分へと生まれ変わることにする。

豊島さんは強いなあと、じつは僕は思っている。3つの意味で。

自己欺瞞をきっぱりやめる勇気


まず、自分が〈「自分ルール」でなく「相手ルール」で動こうと〉していることの自覚が、当時すでにあったこと。
この自覚がない人もいるのだ。

「自分はほんとうにやりたいことをやっているし、それは正しいことだ。なのに人は自分のことを認めてくれない」
と思い、じつはそれ、ほんとうにやりたいことじゃないから、ということに気づかないケースもある。そういうときは人は無意味に世界を呪ってしまう。

それに比べると、豊島さんは、自分がほんとうにしたいことはこれじゃない、と気づいていた。
そもそも、就職活動のときに一度気づいているのだ。
じつはそれ、ちゃんと自分を欺かず、自己欺瞞せずにいた、ということだ。ただそれだけでも立派なことではないか、と僕は思う。

2番目に、〈「自分ルール」でなく「相手ルール」で動こうと〉する(=他者の承認に自分の価値を見出そうとする)ことの虚しさを、20代後半にして看破したこと。
僕は怖がりだったから、40くらいまでかかりましたよ。それまでは自己欺瞞してました。

生きかたのOSを入れ替える


3番目。
この価値転換はそれ自体しんどい作業だったにちがいない。
だって、生きかたを根っこから転換するということだ。人生のOS全とっかえだ。
じっさい、旧・豊島ミホ時代である2006年の『底辺女子高生』(幻冬舎文庫/Kindle)、2009年という「再生」の前後に刊行された『やさぐれるには、まだ早い!』、そして本書とでは、1冊1冊著者の立ち位置が違っている。

その転換のプロセスを直視して、わかりやすくこの本にしたこと。これも豊島さんの強さだ。
こういう経験は、告白するのもたいへんだったはず。

豊島さんの5月22日のブログエントリで本書のまえがき全文を読めるので読んでほしい。
そして、そのあとにも注目。
〈今までの読者の人が気の毒すぎる〉
という意見について、こう書いている。

〈こういう根腐れ告白は完全に蛇足であって
「読まなきゃよかった!」「ひどい!」って
罵られても……それは私が罵られるべきことをしたのだ。
という以上でも以下でもないです。
根腐れしたまま小説書いていてごめんなさいとしか言えません〉

豊島さんには若い(当時若かった)読者が多いだろう。だから、
「豊島さんの小説、好きだったのに、こんな気持ちで書いてたなんて、私の時間を返して!」
的なリアクションも想定されるのかもしれない。
〈新しいアルバム出すたびに前の自分たちのアルバムをくそみそにけなすバンドに対してチッと思ったりとかそういうのあるわけですけれども!〉
という喩えがわかりやすくて感心した(改行は引用者が削除)。

でも、だれにも、自分ではどうしようもないことがある。
そしてこの本は、豊島さんが隠さず肚を割ったから、これだけ素晴らしいものになったのだ。
生まれ変わった豊島さんは、つぎのような生きかたの方針を打ち出した。
〈「誰かのルール」に乗っからないこと。認められるとか認められないとか、そういうことに自分の行動の基礎を置かないこと〉
生きていくうえでだれしもつい見失ってしまいがちなこの決意を、この本は裏切っていないように見える。
(千野帽子)