慶応義塾大の試合を見ていて、気づいたことがあった。それは、今春の出場選手に「浪人経験者」が多いということだ。

 東京大戦で2打席連続本塁打を放った体重107キロの巨漢スラッガー・岩見雅紀(3年・比叡山)は1浪。グラウンド上を軽やかに動き回る遊撃手の照屋塁(3年・沖縄尚学)も、1年遅れで野球部に入部している。そして今春から1番・二塁手に定着した強肩強打の倉田直幸(3年・浜松西)に至っては2浪の末に入学した。先発メンバーではないが、主に外野の守備固めで出場する主将の重田清一(4年・佐賀西)も1浪だ。

 近年の慶大は通称「塾高」こと、慶応義塾高出身の選手が大半を占めていた。シーズンによっては先発メンバー9人中7人が塾高出身ということもある。今春はドラフト上位候補のエース・加藤拓也(4年)、3番・三塁手の強打者・沓掛祥和(くつかけ・よしかず/4年)、そして新人ながら早くも2本塁打を放っている柳町達(1年)と塾高出身者が活躍。そこへ浪人組などがうまく融合している印象だ。

 慶大の大久保秀昭監督は言う。

「ウチは欲しい選手がいても入試のハードルが高いので『獲ります』と確約できません。夏場に高校生向けの練習会をやっても、80人くらいが参加して、入試で合格するのは5人くらい。練習会をセレクションと勘違いする人もいるようですが、そうではないんです。浪人生はそこまでして『慶応で野球がしたい』という選手たちですから、独特の粘り強さを感じることがあります。私の恩師の前田祐吉さんは浪人生を『大人』と重宝がっていたのですが、私もそれを少し意識しています」

 慶大の躍進を支える浪人生たち。彼らはどんな思いで慶応の門を叩き、プレーしているのだろうか。

 倉田直幸は高校時代、一部メディアから「浜松のイチロー」と呼ばれたこともある、静岡県内では知られた好打者だった。高校3年の夏を終えて「大学をどうしよう」と考えていると、父親からこんなことを言われた。

「野球を続けるなら、早慶戦のような舞台でプレーしてくれたらうれしいな」

 倉田の父は学生時代に慶大を志望しながら、その願いを果たせなかったという。本格的な野球経験がないにもかかわらず、幼少期から練習をサポートしてくれた父に、倉田は尊敬の念を抱いていた。早慶いずれかでプレーすることを目指して検討した結果、早稲田大のみ一般受験することにした。

「慶応の入試は小論文があるんですけど、自分は国語が苦手だったので......。早稲田のほうが引っかかるのでは? と思いながら受験しました。でも、とりあえずマークシートを埋める感じで、自分が解けているのかどうかもわからないありさまでした」

 結果はもちろん不合格。すると父は「いい大学に行くのなら浪人はつきものだ」と励ましてくれた。父も浪人経験者だったのだ。

 浪人生活をスタートさせた当初は体がなまらないようにトレーニングも並行していたが、「まず大学に受からないことには始まらない」と勉強に専念。まさに勉強漬けの日々を送った。予備校は早慶志望のコースだったが、次第に慶大への魅力を感じるようになり、慶大一本に絞った。

 そして再び迎えた受験シーズン。相変わらず小論文は苦手だったが、英語と日本史でカバーすれば大丈夫だろうと慶大の一般入試に挑んだ。5つの学部を受験し、手応えは上々。意気揚々と携帯電話で合否を知らせるダイヤルにつなぐと、無機質な自動音声が倉田の耳に入ってきた。

「ザンネンナガラフゴウカクデス」

「最初は『ダメだったか』という感じだったのが、2つ、3つと不合格が続いて『ヤバイな』となり、最後もダメになると、もう空しくなりました。自分は慶応しか受けていないので、この1年間をすべて否定されたような感じで......。やり直しがきかないと思うと、だんだん部屋から出られなくなって、親にも申し訳ないし、もう慶応には縁がなかった、無理なのか......と絶望していました」

 どこか別の大学の後期募集を受けようかと考えていると、またもや父が助け舟を出してくれた。

「2年くらいかかるのはしょうがない。もう1浪してみたらどうだ。早慶なら2浪して入る人だってたくさんいる。その価値があるところだと思うよ」

 この言葉に背中を押され、倉田は2浪を決意する。この年は浜松から東京に出て、寮制の予備校に通うことにした。新しい予備校で基礎から徹底的に見直すと、「自分はわかっているつもりでいたのに、実際はこんなにわかっていなかったのか......」と愕然とした。倉田は新しい環境で徐々に実力をつけていった。

 だが、もう後がない3度目の大学受験も険しい道のりだった。最初に受験したのは第一志望の慶大法学部。英語が想像以上に難しく、「全然ダメだ。これでは無理だ......」と最悪の手応えだったのだ。「切り替えてしっかりやろう」と自分に言い聞かせたが、このショックが尾を引いて、以降の入試も本調子を出せなかった。

 焦燥感に包まれるなか、ある入試の帰り道、電車のなかで「そういえば、今日は慶応法学部の合格発表だ」と思い出した。再び忌まわしい電話応答システムにダイヤルする。すると、倉田の耳に想定外の言葉が飛び込んできた。

「ゴウカクデス」

 倉田はすぐさま電車を降りた。「ウソだろ?」と信じられなかった。昨年は無機質に響いた自動音声が、まったく別の温かみをもって聞こえた。すぐに父に電話すると、受話器の向こうで父が泣いていた。倉田は父の悲願でもあった慶応のユニフォームを2年遅れで着ることができたのだった。

 一方、岩見雅紀は比叡山高時代に通算47本塁打を放ったスラッガーだった。

 今でこそ「東京に来てみて、意外とみんな打っていないんだなと知りました」と振り返る岩見だが、当時は自分が特別な選手だとは思っていなかった。幼い頃から消防士を夢見ており、大学で野球を続ける意思すらなかったという。

 だが、高校3年夏の大会が終わって間もないある日。岩見は「急に野球を続けたくなってしまった」という。甲子園には出られなかった。これまで野球をしていて、何も果たさぬまま終わるのは嫌だ......。そんな思いが芽生えてきた。そして野球部の監督にこう告げる。「関東の大学に行きたいです」と。

 当初は「無理だ」と突っぱねた監督も、諦めずに自ら進学先を探して奔走する岩見の姿を見て、こんな選択肢を提示してきた。

「慶應にAO入試という制度があるぞ」

 もしかしたら、監督は自分を諦めさせるためにそう言ったのかもしれない。今にして岩見はそう感じている。だが、当時の岩見にとって「慶応」という選択肢は、閉じかけていた自身の野球人生に差し込んだ、一筋の光だった。

「もし慶応でやれるのなら、プロを目指そう。そう思ったんです。今まで自分のなかで、野球に対して抑えていた気持ちもあったのかもしれません」

 AO(アドミッションズ・オフィス)入試とは、大学側が求める学生像に合っているか、出願者の個性や適性を多面的に評価する入試制度のこと。「スポーツ推薦」の制度がない慶大だが、甲子園で活躍した選手などはこのAO入試によって慶大の湘南藤沢キャンパス(総合政策学部、環境情報学部)に合格するケースが目立つ。AO入試は書類選考と面接によって合否が判断されるが、小論文を書くための高い著述能力が求められる。たとえ高校時代に野球で実績を残していても不合格になることも多い。

 岩見もまた、AO入試で慶大を受験することを決意したが、出願までの時間がほとんどなかった。ほぼ準備なしで受験したものの、書類選考の時点で不合格。9月の2回目の募集でも不合格となり、岩見は浪人することを決意する。

 だが、高校の教師たちは猛反対した。「本気で言っているのか?」「無理だろう?」......両親、教師ら10人ほどの大人が岩見のために集まり、進路について話し合った。なぜ、これほどの説得を受けたかというと、岩見が近畿圏の2つの大学に一般入試で合格していたからだ。しかし、岩見の「慶応」への思いは揺らがなかった。

「もし浪人して、慶応に受かって5年後にプロに入れなかったとしても後悔はない。でも他大学に行って『あのとき浪人していれば......』という後悔が生まれる可能性はあると思ったんです。浪人して落ちてもいい。その時は野球をやめよう。そういう野球人生だと思っていました」

 1浪してAO入試を受験する者はほとんどいないそうだが、岩見の再チャレンジは無事合格。「地域政策」をテーマに書いた自身の小論文を一言一句暗記し、事前に何度も練習して臨んだ面接でも普段通りの姿を見せることができた。

「猛反対されて迷惑もかけましたけど、なかには『大丈夫だよ』と言ってくれた先生もいて、合格できてよかったです」

 浪人生が野球部に入る場合、同期生が年下になり、先輩が同い年になることもある。上下関係はどうなるのか気になるところだが、慶大の場合は、同期は同期。たとえ年下だろうと同期は「タメ口」であり、先輩には敬語を使う。これは倉田も岩見も「違和感はなかった」と口を揃えた。

 浪人生が抱える野球への長いブランクという課題も、大久保監督は「2年かけて体力を戻し、作ると思えば、チャンスは短いかもしれないが決して遠回りではない」と言う。事実、倉田も岩見も大学3年目の今季にレギュラーになった。

「慶応ボーイ」という言葉があるように、慶大といえばスマートで洗練されたイメージがある。それは野球にも感じることがあるのだが、今年の慶大は泥臭さ、ガムシャラさを感じる。それは大久保監督が目指す方向だという。

「僕がいた頃の慶応は、明治や法政のように甲子園組の多い『プロ予備軍』に対して、いかに勝つかを考えてユニフォームを泥んこにしながら練習していました。その雰囲気を取り戻したいんです。今の慶応はソツのない『うまい選手』は増えています。でも、1球に懸ける思い、ひとつのプレーへの思い、リーグ戦への思いを持っている選手がどれだけいるか。見ている人にも『慶応、ちょっと変わったな』と思ってもらえるようなチームにしたいんです」

 浪人したことは、遠回りだったのか? 最後に倉田と岩見に聞いてみた。

 倉田は「現役で受かっていれば、体力も落ちずにプレーできたのかなと思うこともありますけど、でも今の自分があるのはやはり浪人を経験したからだと思います」と言った。そして岩見は「絶対に浪人してよかったです」と前置きして、こう続けた。

「だって、タイプのダブる横尾さん(俊建/現・日本ハム)と谷田さん(成吾/現・JX-ENEOS)と2年ズレましたから。試合に出るチャンスが2年あるのは大きいです」

 そう言って、岩見は不敵な笑みを漏らした。浪人生のたくましさを見た思いがした。

菊地高弘●文 text by Kikuchi Takahiro