小池容疑者が暮らしていたとみられる岡山市内の マンション。繁華街にあり、人目は多かった

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「おい、小池!」というキャッチコピー入りの手配ポスターで有名な11年前の徳島父子殺害事件。

その犯人とされる小池俊一(としかず)容疑者(52歳)が、岡山市内のマンションの一室で死亡したのは10月19日のこと。

同居する女性(67歳)が帰宅したところ、トイレで倒れている小池容疑者を発見。すぐに警察と救急に通報したものの、警官が駆けつけたときにはすでに息絶えていたという。死因は心臓疾患による病死だった。

「その時点では、警察も男性が小池だとは気づいていませんでした。ところが、いざ葬儀の段になって、同居女性が男性の本名を知らなかったことが発覚。不審に思った葬儀業者が警察に通報し、遺体の指紋を確認したところ、徳島父子殺害事件で指名手配中の小池とわかったのです」(地元紙記者)

これには徳島県警の悔しがること。何しろ、事件発生の2001年4月以来、県警本部内に「小池部屋」と呼ばれる専従捜査室を設置、冒頭の「おい、小池!」ポスターを全国に約108万枚も配りまくり、小池容疑者を血眼(ちまなこ)になって追ってきたからだ。

実は2年前、週プレ編集部にも徳島県警から捜査協力の依頼が舞い込んでいる。週プレの誌面で、この事件を広く読者に伝えてほしいというのだ。

日頃は高飛車な警察さまが週刊誌に頭を下げ、事件の広報を頼んでくるなんて異例中の異例。いかに徳島県警が小池容疑者逮捕に執念を燃やしていたか、よくわかる。

なのに、小池容疑者は結局、手錠をかけられることもなく、潜伏先のマンションで一生を終えた。これは徳島県警にとって捜査上の敗北を意味する。

それにしても、小池容疑者はどうして11年間も警察から逃げ続けることができたのだろう? まず、ひとつ目の理由として考えられるのが同居女性の存在だ。小池容疑者がこの女性と出会ったのは約10年前。女性が働く飲食店に通っているうちに、やがて男女の関係になった。

「逃亡後、小池は岡山市内でチラシ配りの仕事をしていたものの、住む家がなく、安ホテル暮らしをしていたようです。それが女性と親しくなるうち、2005年頃に『ウチで一緒に住めば?』と声をかけられ、同居が始まったと聞いています。以来、小池は仕事をせず、女性から毎月2万円の小遣いをもらってヒモ同然の生活を送っていました」(地元紙記者)

当時、交番の連絡巡回で、女性は「ひとり暮らし」と答え、同居人の存在をひた隠しにしていたという。この女性が匿(かくま)ってくれなければ、小池容疑者は早期にお縄になっていたに違いない。

ふたつ目の理由は小池容疑者の予想を超えた容姿の変化。マンションの近隣住民が言う。

「よくコンビニのレジ袋を下げている小池容疑者を見かけたけど、手配写真とはまったくの別人でした。色白で痩せていたし、顔もしわだらけで、手配写真よりもずいぶん老けて見えました」

徳島県警は加齢による人相の変化を予測し、52歳になった小池容疑者の似顔絵を12パターンも作成し、公開している。

しかし、実際の小池容疑者はその12パターンよりもはるかに老化しており、手配写真とのギャップはかなり大きかったようだ。この容貌のギャップが11年間もの逃亡を可能にしたのだろう。

3つ目の理由が潜伏先の意外さだ。小池容疑者の住むマンション付近は岡山市有数の繁華街で、しかも歩いて数分のところに交番、500m先には、なんと岡山県警本部までもがある。この人目の多いゾーンで、小池容疑者は、あるときはスーツ姿で、あるときはニット帽にメガネ姿で堂々と外を歩いていたという。

小池容疑者がよく使っていたという喫茶店の店主が言う。

「3、4年前に月に1、2回、昼にひとりで顔を出しては780円の日替わりランチをよく注文していました。来るときはいつもスーツ姿。ウチはランチに100人以上のサラリーマンが来店し、ひとり客は大テーブルで相席してもらうんです。スーツ姿の小池容疑者はそんなサラリーマンの集団に溶け込んでいましたね。そうそう、1ヵ月ほど前にも店の前の通りで見かけた。そのときはニット帽にメガネ、上下ジャージ姿でした」

繁華街の光景にすっかり溶け込んでいた小池容疑者を喫茶店の店主が記憶していたのは、亡くなった義弟にウリふたつだったから。

「そうでなきゃ、顔なんか覚えてません」(喫茶店の店主)

これでは近くに詰める岡山県警本部の警官も気づかないわけだ。

警察が小池容疑者にかけた捜査特別報奨金は300万円! しかし、その金はついに支払われることなく、徳島父子殺害事件は未解明のまま終結してしまった。

(取材/ボールルーム)