愛知県名古屋市栄の「ポスト宗春」は、倹約ブームへの静かなる反発か!?
ある晩、筆者は久しぶりに会った友達と名古屋市栄の繁華街で飲んでいた。
飲み会に金を使うと奥さんに叱られるという友のため、男2人で飲み放題の店に入りしこたま発泡酒を飲んでいい気分の千鳥足。
その時である、金ピカの変なポストが目の前にこつぜんと現れたのだ。
「なんだこれ?」。
そこにあったのは、確かに郵便ポスト。
それも全身を黄金色に染めた「金ピカポスト」だ。
ポストの上には、お殿様とおぼしき「小さなお兄さん」フィギュアまで取り付けられていた。
まじまじとみると、ちゃんとした作りである。
細面の貴公子。
手には長いキセルを持ち、牛に乗っている。
これを聞いて名古屋という地名から一瞬で「もしや」と思う人は、相当な歴史オタクにちがいない!正式名は、開運「ポスト宗春(むねはる)」。
なんと公式サイトまで存在していた。
やっぱり彼か、徳川宗春なのかと思った筆者は生粋の名古屋っ子。
金色は大方の予想通り、名古屋城の金シャチから来ているようだ。
2010年11月21日に完成したそうだから、もう2年近くこの栄に鎮座されているのだ。
全国のみなさんに解説しよう。
宗春というのは尾張藩(今でいう愛知県の左半分)の7代目藩主、徳川宗春(1696〜1739)のことだ。
彼の時代の江戸幕府の将軍は、かの質素倹約の鬼、徳川吉宗である。
国の財政悪化に悩んだ吉宗が断行した政策が、ご存じ江戸三大改革の一つ「享保の改革」だ。
倹約を前面に押し出した緊縮財政で、ぜいたく行為はもちろん、歌や芝居といった伝統芸能にも規制をかけ、庶民の楽しみもコントロールした。
国のトップである将軍の出した方向性である。
当然、全国の諸大名もその流れに追従する中で、たった1人、公然と彼に対して反旗を翻したのが、この徳川宗春だったのである。
宗春は尾張藩内で、吉宗の意とは真逆の積極経済政策を取った。
この2人の哲学の違い、今でいうならば「財政規律派」と「積極財政派」の違いといえるのかもしれない。
古くからの祭りや芸能を手厚く保護し、女性や子供が夜遅く街を自由に歩けるためにと、なんと尾張の町に数多くのちょうちんまで掲げさせたという宗春。
その開放政策は、当然、商人や庶民に支持された。
結果、日本では愛知県(当時の尾張藩)にだけヒトとカネが集まり、華やかな一時代を築いたという。
当時は京都・江戸・大坂の三大都市をしのぐ繁栄ぶりで「名古屋の繁華に興(京)がさめた」とまで言われたらしい。
当然、突如現れたインドのマハラジャのような宗春のパフォーマンスを、江戸の吉宗が黙っておくはずがない。
吉宗は使者を通じて再三にわたり、スタイルを改めるように迫ったという。
しかし、宗春はあらゆる言葉を使い、これまた徹底的に反論したのである。
だが、この開放政策も終わりをつげる。
開放し過ぎたゆえに風紀が乱れ、加えて藩の借金増といった宗春財政のマイナス面が噴出するようになる。
それを待ち構えていたかのような江戸幕府一派の後押しもあったのかもしれない。
クーデターが突発して、宗春は元文4年(1739)に44歳の若さで失脚して蟄居(ちっきょ)謹慎を命じられた。
これにより、「尾張の開放政策」は最期を迎えた。
現代人の彼に対する評価は様々だ。
批判する者も多いが、支持派はインテリ、庶民を問わない模様。
それは単純に、「あの将軍・吉宗にたてつき、名古屋を盛り上げたリーダー」という理由だけではない。
当時にしては珍しい、日本人らしからぬ大胆な統治スタイルに支持が集まっているのだ。
例えば、政治家だけでグループを作ることなく、力のある商人との対話を積極的に行い、地域を活性化したこと。
はたまた、市場や祭りといったコミュニティーを手厚く保護する一方、当時の日本にまだ多かった、人道に反するような祭りや刑法は規制したこと……。
飲み会に金を使うと奥さんに叱られるという友のため、男2人で飲み放題の店に入りしこたま発泡酒を飲んでいい気分の千鳥足。
その時である、金ピカの変なポストが目の前にこつぜんと現れたのだ。
「なんだこれ?」。
そこにあったのは、確かに郵便ポスト。
それも全身を黄金色に染めた「金ピカポスト」だ。
ポストの上には、お殿様とおぼしき「小さなお兄さん」フィギュアまで取り付けられていた。
細面の貴公子。
手には長いキセルを持ち、牛に乗っている。
これを聞いて名古屋という地名から一瞬で「もしや」と思う人は、相当な歴史オタクにちがいない!正式名は、開運「ポスト宗春(むねはる)」。
なんと公式サイトまで存在していた。
やっぱり彼か、徳川宗春なのかと思った筆者は生粋の名古屋っ子。
金色は大方の予想通り、名古屋城の金シャチから来ているようだ。
2010年11月21日に完成したそうだから、もう2年近くこの栄に鎮座されているのだ。
全国のみなさんに解説しよう。
宗春というのは尾張藩(今でいう愛知県の左半分)の7代目藩主、徳川宗春(1696〜1739)のことだ。
彼の時代の江戸幕府の将軍は、かの質素倹約の鬼、徳川吉宗である。
国の財政悪化に悩んだ吉宗が断行した政策が、ご存じ江戸三大改革の一つ「享保の改革」だ。
倹約を前面に押し出した緊縮財政で、ぜいたく行為はもちろん、歌や芝居といった伝統芸能にも規制をかけ、庶民の楽しみもコントロールした。
国のトップである将軍の出した方向性である。
当然、全国の諸大名もその流れに追従する中で、たった1人、公然と彼に対して反旗を翻したのが、この徳川宗春だったのである。
宗春は尾張藩内で、吉宗の意とは真逆の積極経済政策を取った。
この2人の哲学の違い、今でいうならば「財政規律派」と「積極財政派」の違いといえるのかもしれない。
古くからの祭りや芸能を手厚く保護し、女性や子供が夜遅く街を自由に歩けるためにと、なんと尾張の町に数多くのちょうちんまで掲げさせたという宗春。
その開放政策は、当然、商人や庶民に支持された。
結果、日本では愛知県(当時の尾張藩)にだけヒトとカネが集まり、華やかな一時代を築いたという。
当時は京都・江戸・大坂の三大都市をしのぐ繁栄ぶりで「名古屋の繁華に興(京)がさめた」とまで言われたらしい。
当然、突如現れたインドのマハラジャのような宗春のパフォーマンスを、江戸の吉宗が黙っておくはずがない。
吉宗は使者を通じて再三にわたり、スタイルを改めるように迫ったという。
しかし、宗春はあらゆる言葉を使い、これまた徹底的に反論したのである。
だが、この開放政策も終わりをつげる。
開放し過ぎたゆえに風紀が乱れ、加えて藩の借金増といった宗春財政のマイナス面が噴出するようになる。
それを待ち構えていたかのような江戸幕府一派の後押しもあったのかもしれない。
クーデターが突発して、宗春は元文4年(1739)に44歳の若さで失脚して蟄居(ちっきょ)謹慎を命じられた。
これにより、「尾張の開放政策」は最期を迎えた。
現代人の彼に対する評価は様々だ。
批判する者も多いが、支持派はインテリ、庶民を問わない模様。
それは単純に、「あの将軍・吉宗にたてつき、名古屋を盛り上げたリーダー」という理由だけではない。
当時にしては珍しい、日本人らしからぬ大胆な統治スタイルに支持が集まっているのだ。
例えば、政治家だけでグループを作ることなく、力のある商人との対話を積極的に行い、地域を活性化したこと。
はたまた、市場や祭りといったコミュニティーを手厚く保護する一方、当時の日本にまだ多かった、人道に反するような祭りや刑法は規制したこと……。