大瀧詠一が注目したサエキけんぞう、“未来”が見えて「全部イヤに」なった窪田晴男 「パール兄弟」結成前夜
2026年にメジャーデビュー40周年を迎えたバンド「パール兄弟」。ボーカルのサエキけんぞう(68)とギターの窪田晴男(66)が、それぞれの音楽人生と二人が出会い、バンド結成に至るまでを振り返った。
(全2回の第1回)
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【写真を見る】若き日のサエキけんぞうと窪田晴男、現在のパール兄弟のライブ写真も
音楽一家育ちの窪田晴男
窪田が育ったのは、両親が合唱団で出会ったという音楽一家。5歳からオルガンを習い、グループサウンズに憧れたが、小学5年生で「走れコウタロー」を聴くと、興味はフォークギターへ。お年玉の8,000円でフォークギターを買ったものの、中学に入ると、今度はチェイスやシカゴといったブラスロックに惹かれるように。ヤマハの入門者向けトランペット「カレッジモデル」を買ったが、トランペット1本ではブラスロックはできない。その後、グラムロックブームが訪れると、デヴィッド・ボウイに夢中になり、兄に連れられ新宿の東京厚生年金会館(当時)のライブへ。その頃、ようやく自らバンドを始めた。

「音楽をやることを両親から止められたことはなかったですね。高校を卒業する頃には大学受験なんて頭の中になく、『このまま音楽をやりたい』と言ったら、音大にでも行ったらどうだと勧められたのですが……」
父方の親戚筋に山屋清がいた。1960年代、前田憲男、三保敬太郎と並ぶジャズ・ポップスの三大アレンジャーと呼ばれた一人だ。
「両親と山屋さんのところに行くと、『音大の4年間でやるようなことは真剣にやれば3カ月で終わる。やる気があるなら行かなくていい』と。その鶴の一声で山屋さんのお宅に通うようになりました。ただ、宿題は出すのに何も教えてはくれなかったですね。仕方ないから山屋さんの書いたビッグバンドのスコア(譜面)を貸してもらって、それをひたすらCのキーの譜面に書き直す、といったことをしていました」
高校卒業後の進路は決まっていなかったが、音響(PA)を志望していた友人が助けてくれた。後に窪田の初代バンドマネージャーとなるその友人は、当時、布施明のバンドボーイを務めており、その後釜に窪田を推したのだ。
「どうやれば音楽でお金を稼げるようになるかを間近で見られたのは良かった。舞台の作り方も学べたし、練習時間もたくさん取れる。朝9時に搬入して楽器のセッティングさえ終えれば、メンバーが入るまで4時間ぐらいは練習できて、練習していると褒められました。メンバーはグループサウンズやビッグバンドから来た人ばかりで、ジャズを教えてくれたり、練習方法を見てくれたり。有意義な時間でした」
同じ頃、布施のバンドのギタリストが山口百恵のファイナルツアーに参加することになり、その縁で、窪田もバンドボーイとしてファイナルツアーを手伝うことになった。
「このまま25歳頃までやっていれば、どこかのレコ大歌手のバックになれて、30歳頃からはスタジオミュージシャンになって……という未来が見えた気がして、ツアーの最中に全部イヤになって(苦笑)。布施さんのバンドボーイは1年ほど続けましたが、もう一度アマチュアに戻ってバンドをやり直そうと考えたんです」
千葉の仲間とバンド人生を始めたサエキ
一方のサエキは、小学4年の時にビートルズとグループサウンズに目覚め、「レコードをガンガン買い漁った」という。千葉大教育学部附属中学を経て県立千葉高へ通った。
「千葉の同年代の仲間はバンドをやっていた連中が多く、『少年ホームランズ』というアマチュアバンドを組みました。最初の頃にはちょっとだけギターもやりましたが、あまりにもみんなが上手くて、僕がやる必要がなかった。ドラムもベースもいたんで、ボーカルをやらせてもらう形になったんです」(サエキ)
少年ホームランズが活動していた1970年代後半、「東京ロッカーズ」と称される日本初のパンクロックムーブメントが盛り上がっていた。千葉で結成された「8 1/2」(ハッカニブンノイチ)はその一角を担ったが、バンドが分裂したのを機に、キーボードの上野耕路やドラムの泉水敏郎らが少年ホームランズに合流。サエキ、ギターの比賀江隆男、ベースの石原智広とで新たなバンド「ハルメンズ」が結成された。そして1980年10月、ビクター音楽産業(当時)からデビューする。
メンバー全員が千葉にゆかりをもつが、後に戸川純と「ゲルニカ」を結成する上野は県立千葉高のサエキの1学年後輩にあたる。千葉市稲毛で今年50周年を迎える老舗ロックバー「フルハウス」も当時から大いに盛り上がっていた。千葉のバンドのムーブメントの勢いが窺い知れる。
デビュー作は鈴木慶一がプロデュースしたアルバム「ハルメンズの近代体操」だった。
「デビュー前のデモテープの出来が割と良くて。デモに最初に食いついてきたのは、あの大瀧詠一さんだった、という名誉な話があるんです。もし大瀧さんプロデュースでハルメンズの作品が出ていたらどうなっただろう……とは考えますね」
サエキによると1979年の話だという。ただ、当時、大瀧は1981年に発売されることになる名アルバム「A LONG VACATION」の制作準備に入っており、実現はしなかった。
「だから、もしプロデュースしてもらえたとしても、81年以降の話。でもハルメンズは81年に上野と泉水が脱退し、82年末で活動を凍結しましたから、その頃にはバンドは実質なくなっているっていうことになります(苦笑)」
近田春夫とビブラトーンズを結成した窪田
一方、窪田は1979年にバンド「人種熱」を結成していた。翌年には、近田春夫のバンド「近田春夫&ビブラトーンズ」の活動も並行して始めた。
「近田さんって変わった方で、山のように送られてくるデモテープを聴くのが趣味なんです。僕らのデモテープも聴いてくれて、ちょっと気に留めてくれていたようで」(窪田)
近田は1981年3月に公開されたアニメ映画「悪魔と姫ぎみ」のサウンドトラックをプロデュースすることになり、人種熱も制作に参加することになった。
「僕らの練習を近田さんが見てくれた時に『お前ら絶対に売れないと思うけど、俺は面白いと思うから、何か一緒に仕事したいね』と言ってくれて。社交辞令と思っていたら『悪魔と姫ぎみ』の仕事を振ってくれたんです。そのレコーディングが盛り上がり、近田さんがソロアルバムを出す際も『バンドでやりたい』という理由で『近田春夫とビブラトーンズ』になったわけです」(同)
こうして1981年11月にアルバム「ミッドナイト・ピアニスト」とシングル「金曜日の天使」でビブラトーンズは正式にデビューを果たす。窪田は22歳になっていた。
交わり始めたサエキと窪田の人生
サエキは窪田の1歳上。ハルメンズとビブラトーンズのデビューも約1年違いだ。YMOを頂点とするテクノブームの中で、それに続く鈴木慶一と近田春夫の下にいたのがサエキと窪田だったという構図でもある。二人の人生は、互いのライブを観に行くなどして交わり始めた。
1982年11月、窪田はビブラトーンズのライブの中で、「仕事でやってるビブラトーンズ」とMCで発言したことでメンバーの怒りを買い、そのままバンドを自主脱退する。そのライブをサエキも観ていた。
その翌月に行われたハルメンズ凍結前のラストライブには、窪田が訪れていた。ビブラトーンズを脱退した窪田は、平山三紀や山下久美子のバックバンドで活動し始め、さらに、松任谷由実のツアーのバックにギターとして参加することになった。
そのツアーもサエキが観に来た。打ち上げに誘われ、居合わせた窪田にこんな話をした。
「ギターとベースとドラムぐらいの軽装備で、沢田研二さんみたいな曲ができないかな」
二人がついに合体することに。パール兄弟誕生前夜であった。
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ついにそのバンド人生が交わることになったサエキと窪田。第2回【デビュー40周年「パール兄弟」が変わり続けられた理由 サエキけんぞう「異物感のない人はつまらない」】では、結成後の「パール兄弟」が歩んだ道のりや最新作などについて語っている。
デイリー新潮編集部
