「安全地帯」から部下に特攻を命じた指揮官…戦後、海外の取材で見せた笑顔

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私が2026年7月、上梓した『ドキュメント 軍人たちの戦後』(小学館新書)は、これまで30余年、500名以上におよぶ戦争体験者や遺族をインタビューしてきたなかで、特に印象に残った人たちの「戦争」と「戦後」を綴った一冊である。ここでは本書に収載しきれなかったエピソードをまじえて紹介する。

【前編を読む】芸者6人も爆死…「幹部の宴会」のために警戒解除され、壊滅したトラック島

「ダバオ水鳥事件」

門司はその後、昭和19年7月に前線の基地航空部隊の主力である第一航空艦隊(一航艦)副官となり、フィリピン・ダバオに司令部を置く一航艦に着任した。

すでに6月15日には米軍がサイパン島に上陸している。サイパン、テニアンを敵に奪われたら、東京をふくむ日本本土が、米軍が新たに開発している大型爆撃機・ボーイングB-29の攻撃圏内に入る。いわば、将棋でいえば詰んだも同然になる。ところが、6月19日から20日にかけて、日米の機動艦隊が激突した「マリアナ沖海戦」と呼ばれる戦いで、日本側は見るべき戦果を挙げられないまま、空母3隻と搭載機のほとんどを失い、大敗を喫していた。

門司がいたダバオも、昭和19年9月9日から10日にかけ、米機動部隊艦上機による大空襲を受けた。

10日朝、見張所からの「敵水陸両用戦車二百隻陸岸に向かう」との報告に、浮き足立った根拠地隊司令部は、「ダバオに敵上陸」を報じ、一航艦司令部もそれにつられる形で混乱を起こした。折あしく一航艦では、敵機の夜間空襲による損害を防ぐため飛行機をフィリピン各地に分散していて、ダバオにはこの日、飛べる飛行機は一機もなく、敵情については見張員の目視に頼るしかなかった。

司令部は玉砕戦を覚悟し、敵上陸に備えて通信設備を破壊、重要書類を焼却するが、10日の夕方になって、第一五三海軍航空隊飛行隊長・美濃部正少佐が、修理した零戦で現地上空を偵察飛行してみたところ、敵上陸は全くの誤報であることがわかった。見張員が、海面の白波を水陸両用戦車が来たと見間違えたのだった。これは、昔、平氏の軍勢が水鳥の羽ばたく音を源氏の軍勢と間違えて壊走した「富士川の合戦」を思わせることから、「ダバオ水鳥事件」と呼ばれる。

敵機動部隊は9月12日、こんどはセブ基地を急襲する。ダバオに敵上陸の誤報を受け、敵攻略部隊に備えてセブ基地に集中配備された第二〇一海軍航空隊の零戦は、この空襲で壊滅的な損害を被った。

「水鳥事件」で司令部が通信設備を破却してしまっていたので、その後の分散指示が出せなかったのだ。フィリピン決戦に向けて用意されていた虎の子の零戦は、こうして戦わずして戦力を失った。「セブ事件」と呼ばれる。

「台湾沖航空戦」

この一連の不祥事で、一航艦司令長官・寺岡謹平中将は在任わずか2ヵ月で更迭され、後任の長官には大西瀧治郎中将が親補された。

大西がフィリピンに赴任する途中の10月12日、台湾は艦上機による大規模な空襲を受け、同日、九州・台湾・沖縄を管轄する第二航空艦隊(二航艦)司令長官・福留繁中将は指揮下のT攻撃部隊に対し、敵機動部隊への総攻撃を下令した。

T攻撃部隊は10月12日から16日にかけ、総力を挙げて敵機動部隊を攻撃。空母10隻撃沈、8隻撃破などの「大戦果」が報じられたが、16日になって索敵機が、撃滅したはずの敵機動部隊が無傷で航行しているのを発見した。日本側の戦果判定の多くは、薄暮から夜間にかけての攻撃で、味方機が被弾炎上するのを敵艦の火災と誤認したものであった。「台湾沖航空戦」と呼ばれるこの戦いで、日本側が失った飛行機は約400機。沈没した米軍艦艇は1隻もなかった。

昭和10月17日、米軍攻略部隊の先陣は、レイテ湾の東に浮かぶ小さな島、スルアン島に上陸を開始した。いよいよ、敵の本格的進攻が始まったのだ。

大西中将が、ダバオから一航艦の司令部が移転したマニラに飛んだのは、10月17日午後のことである。その晩、寺岡中将と大西中将との間で、実質的な引継ぎが行われた。辞令上は、大西の一航艦長官就任は10月20日付だが、この時点で指揮権は大西に移ったと考えて差支えない。

18日の夕刻、連合艦隊司令部がフィリピン防衛のため、「捷一号作戦発動」を全海軍部隊に下令した。作戦によると、栗田健男中将率いる戦艦「大和」「武蔵」以下、戦艦、巡洋艦を基幹とする第一遊撃部隊が、敵が上陸中のレイテ島に突入、大口径砲で敵上陸部隊を殲滅する。

戦艦「扶桑」「山城」を主力とする別働隊と、重巡洋艦を主力とする第二遊撃部隊が、栗田艦隊に呼応してレイテに突入する。その間、空母4隻を基幹とする機動部隊が、囮(おとり)となって敵機動部隊を北方に誘い出す。基地航空部隊は全力をもって敵艦隊に痛撃を与える。……まさに日本海軍の残存兵力のほとんどを注ぎ込む大作戦だった。

だが、航空部隊が敵艦隊に痛撃を与えようにも、フィリピンの航空兵力は、10月18日現在の可動機数が、一航艦の35~40機、陸軍の第四航空軍約70機しかなく、台湾から二航艦の残存機230機を送りこんでも、あわせて約340機に過ぎなかった。

『一億特攻』

大西中将は、一航艦のわずか数10機の飛行機で、栗田艦隊のレイテ湾突入を支援し、成功させなければならない。そこで、敵空母を撃沈できないまでも、せめて飛行甲板に損傷を与え、1週間程度使用不能にさせることを目的に採られた戦法が、250キロ爆弾を搭載した零戦もろとも体当り攻撃をかける「特攻」である。

一航艦で編成された最初の特攻隊は、関行男大尉を指揮官に、10月21日を皮切りに出撃を重ね、25日、初めて突入、敵護衛空母を撃沈するなどの戦果を挙げた。

だが、特攻隊や囮部隊の犠牲を裏切るかのように、栗田艦隊はレイテ湾突入を断念、敵上陸部隊を目前にしながら反転し、作戦は失敗に終わった。だがここで、延べわずか10機の爆装零戦による体当たり攻撃が、栗田艦隊による砲撃戦を上回る戦果を挙げたこともあり、以後、特攻は恒常的な戦法として続けられるようになる。

門司は言う。

「中央で特攻が既定路線となっていたことを知ったのは戦後のことですが、いずれにしても、ずっと前線にいた目から見ると、トラック空襲で第四艦隊司令部が見せた失態が尾を引いて、その挙句に特攻に行きついた面があることは間違いない。

そしてレイテ沖で日本海軍は艦隊の大部分を失って、その後はずっと特攻こそが唯一の戦法であるというふうになってしまった。込み入った作戦を考える必要がないから、自分が出撃する立場にない軍令部作戦部の部長や参謀にとっては楽だったのではないか。ただ、そうなれば参謀など必要ありません。

新聞やラジオも特攻隊員を『軍神』と褒めそやし、しまいには『一億特攻』などというスローガンが掲げられるようになった。『一億特攻』と言いますが、仮に日本人が最後の1人まで特攻で死ねば、いったい誰が日本を守り、天皇陛下をお守りするのか。米軍の庇護のもとに存続するのか、あるいは日本という国は亡びるのか、そんな当たり前のことを考える余裕もない集団ヒステリー状態に導いてしまっていたわけです」

安全地帯にいる人の言うことは聞くな

特攻を採用したり、命じる側にいた「上層部」の将官で、自ら責任をとって自決したのは大西瀧治郎中将だけだった(宇垣纒中将の、部下を道連れにした私兵特攻はのぞく)。

フィリピンの第一線で特攻を推進し、多くの若者を死地に追いやった指揮官の一人に、二〇一空飛行長だった中島正中佐(1910-1996。戦後、航空自衛隊で空将補)がいる。中島は、亡くなる前年の平成7(1995)年、私の電話インタビューに、

「もう全部忘れた。零戦のことも特攻のことも」

と答えたが、同年、イギリスの国営放送BBCのドキュメンタリー番組「KAMIKAZE」に出演、そこでは特攻に関して、

「誰も志願してくれなかったらどうしようと思っていたら志願してくれてよかった」

「私は世話役なもんだから(特攻隊員に)なれないわけですよ。あと空戦の腕のいいのも、特攻機を守ってもらわなきゃならんから出さなかった」

などと、日本で放送されない前提の番組だったせいか、悪びれることなく笑顔で語っている。中島は最初から「督戦側」すなわち「安全地帯」に身を置いていた。同じ「航空隊飛行長」の立場でも、

「うちの隊にはいっぺんこっきりで死なせるような部下は1人もおりません」

と特攻要請を断った二〇三空飛行長・進藤三郎少佐や、軍令部参謀から三四三空司令となった源田実大佐に、

「どうしてもというのなら私が第一陣を率いて出撃します。最後には司令も行ってくださいますね?」

と詰め寄って断念させた三四三空飛行長・志賀淑雄少佐のような例もある。

中島中佐も、もとはベテランの戦闘機乗りだったのだから、部下に命じるときにまず、

「俺が手本を見せてやる」

と、真っ先に出撃していれば後世の評価も違っていたかもしれない。

門司は言う。

「自分は行く立場にない、死ぬ係じゃない。……それが中央でも前線でも、特攻で部下に死を命じた側の多くの本音だったのでしょう。自分が死ぬ立場なら、命令のあり方も違ったかもしれない。--そんなこともあって、『安全地帯にいる人の言うことは聞くな、が大東亜戦争(太平洋戦争)の大教訓』だと思っています」

第一線で、身をもって戦争を体験した人がほとんど鬼籍に入ったいまこそ、この言葉を噛みしめるべきときなのではないだろうか。

太平洋戦争で、230万名にものぼる将兵や軍属、準軍属が戦死、あるいは戦病死し、30万の一般邦人が命を落としたとされているが、その多くはいまなお遺骨すら還っていない。遺族への扶助料も、敗戦とともに空証文と化し、昭和27(1952)年の第十三通常国会で、「戦傷病者戦没者遺族等援護法」が可決、成立するまでは1円の援助もなかった。しかも、50万人もの死者を出した民間人の空襲被害者に対しては米一粒、柱一本の補償もしてこなかったのが先の大戦における「祖国」である。

海の向こうのアメリカでは、『父親たちの星条旗』『硫黄島からの手紙』などで知られる映画監督・俳優のクリント・イーストウッドが、

「戦争を美しく語る者を信用するな。彼らは決まって戦場にいなかった者なのだから」

と言っている。これは歴史を踏まえた上での至言だと思う。同様に、昨今の保守論壇でしばしば見受けられるような、「祖国」を持ち出して若者に「戦う覚悟」を問う者にも惑わされてはならない。彼ら、彼女らは決まって戦場に行かない者たちなのだから。

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