陸自ヘリのパイロットは、救助のために命懸けで墜落現場を何度も往復した

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 海上幕僚副長や横須賀地方総監など海上自衛隊の要職を務めた真殿知彦氏は、今年1月に『日航123便墜落「撃墜説」の真相』(PHP研究所)を上梓し、1985年8月12日に発生した日航機墜落事故にまつわる陰謀論のひとつ「自衛隊による撃墜説」を科学的に完全否定した。真殿氏はその後も調査を続け、陰謀論を生み出した「犯人」を突き止めようとしている。

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【写真を見る】自衛隊のミサイルの実際の色とは

そもそもオレンジ色のミサイルなどない

 日航123便墜落を自衛隊による撃墜だと主張する人(以下、「陰謀論者」)たちは、「オレンジ」または「赤」の飛行物体の存在に異常に執着している。オレンジまたは赤の訓練用ミサイルまたは標的機が日航機に激突したというのは、陰謀論者らの創ったストーリーの大前提だ。

陸自ヘリのパイロットは、救助のために命懸けで墜落現場を何度も往復した

 逆に言えば、オレンジまたは赤の飛行物体が存在しなければ、陰謀論者らの説は全てが破綻する。私は海上自衛隊で約40年勤務し、航空部隊の指揮官も務めた専門家として断言するが、こうした撃墜説は完全なデタラメである。

 陰謀論者たちは、事故当時、相模湾には新造されたばかりの護衛艦「まつゆき」がいて、そこから発射されたオレンジ色の訓練用ミサイルが日航機の垂直尾翼に激突したと主張する。だが、そもそも海上自衛隊にはオレンジや赤色のミサイルはない。当時も現在も、海自が保有するミサイルはすべて白かグレーで、実弾と訓練弾を見分けるために黄色と青色のマーキングがされているが、どこにも赤やオレンジの塗装はされていない。

 また、事故の3日前に日本海で発射試験が行われた、当時開発中のSSM-1(88式地対艦誘導弾)が衝突したと主張する陰謀論者もいる。この開発中の飛翔体の一部が赤く塗装されていることに目をつけたのだろう。しかし、SSM-1を発射可能な艦艇は当時の海上自衛隊に1隻も存在しなかったことは私の著書で詳細に述べた。

 現在に至るまで、SSM-1はまつゆきを含む「ゆきクラス」とその後の「きりクラス」には一度も装備されたことはない。開発が終わったSSM-1が初めて海上自衛隊に装備されたのは平成2年(1990)度計画の1号ミサイル艇からであり、しかもその量産型のミサイルは実弾も訓練弾もグレーである。さらに言えば、このミサイルは「対艦誘導弾」という名称が示すとおり、航空機を狙う対空ミサイルではなく、艦艇を攻撃する対艦ミサイルである。

 にもかかわらず、陰謀論者たちは「赤いミサイルが発射されるのを見た」という目撃情報があると主張する。この世に存在しない赤いミサイルを、誰がどうやって目撃したのかだろうか。

 何を主張するのも勝手だが、せめて実在する兵器でストーリーを構成したらどうだろうか。しかし、基本的な軍事の知識がない人たちは、こんなデタラメに簡単にだまされてしまう。

突っ込んでくる車を見て「レッドカー!」と叫ぶか

 陰謀論者の中には、流出したCVR(コクピット・ボイス・レコーダー)の音声に「オレンジエアー」という言葉があると主張する者がいる。それが、オレンジ色の飛行物体が日航機を追いかけた証拠だと言うのだ。

 私が初めて教育航空隊に配置された時に「航空管制交話」という授業があった。英会話は得意であった私でも航空管制等で交わされる用語は聞き取れず、最初は全く意味がわからなかった。単語のみを並べたような交話は、英語がペラペラな人でも飛行機の運航を知らないと理解できない。航空管制交話やコクピット内での会話は、英語または日本語で話されるが、英語を使う時はもっぱら「共通の用語」を使う。 

「共通の用語」とは、パイロット、管制官、航空機関士が聞けばすぐに理解できる言葉である。例えば「ギア・ダウン」といえば「主脚を降ろす」という意味だが、一般の人にはわからなくても、パイロットと航空機関士には理解できる。これが「共通の用語」だ。「オレンジエアー」などという言葉は自衛隊や民間航空の「共通の用語」にはない。「共通の用語」でなければ日本語で話すのがコクピット内の常識だ。よって、「オレンジエアー」などという言葉を発するわけがないのだ。

 例えば、あなたが友人と共に交差点で信号待ちをしている時に、赤い車が暴走して自分の方に迫ってきたとする。とっさに出てくる言葉は、「危ない」とか「逃げろ」、または「車!」といった言葉だろう。「レッドカー!」と叫ぶ人はまずいまい。危険が迫っている時に、車の色をわざわざ強調する必要はない。

 コクピット内でも同じことで、仮に何か異常があれば日本語で「近くに何か飛んでいます」と言うのが普通のパイロットだ。オレンジという色を強調する必要性は全くない。そもそも民間機にはミサイル等を探知可能なレーダーがないので、後方から飛翔体が近づいてくることがわかるはずもない。軍事や航空に無知な素人の豊かな発想力には、失笑を禁じ得ない。

防衛庁に一瞬で論破された週刊誌

 それでも「オレンジ」または「赤」の飛行物体に執着する陰謀論者たちが次に目につけたのは、海上自衛隊が当時保有していた次の3種類の標的機だ。

・低速標的機KD2R-3/5/5改
・高速標的機BQM-34(ファイアービー)
・高速標的機BQM-74(チャカII)

 標的機とは、簡単に言えば、護衛艦が敵機や敵ミサイルなどを迎撃する訓練に使用する「的」だと思ってもらえばよいだろう。いずれもオレンジ色で塗装された標的機は陰謀論者らにとっては格好の存在であるが、この「標的機衝突説」も全くのデタラメである。

 発端となったのは、ある航空評論家がテレビで何の根拠も示さずに標的機衝突の可能性を述べたことだった。そして、標的機説を大々的に発表したのは吉原公一郎というジャーナリストだ。当時の『週刊ポスト』(1985年9月20日号)で吉原氏は、R-144という愛知県南方にある空自の訓練海域から逸脱したファイアービーが、日航機に衝突した可能性を指摘した。彼はその根拠として、墜落現場の御巣鷹の尾根で見つかった「オレンジ色の物体」がファイアービーであると主張した。

 しかし、防衛庁(当時)がすぐに「ファイアービーは海上自衛隊の訓練支援艦あづまより発射されるもので、8月11日から21日までは呉基地に在泊中でした。もちろん、12日も訓練は行っておりません」と反論した。ファイアービーやチャカIIなどの標的機は、当時はあづま1隻しかなかった訓練支援艦の高速標的機艦上追尾管制装置(TCATS)によって操縦される。事故当日にあづまは瀬戸内海の呉に停泊していたのに、相模湾付近でこれらの標的機が飛べるはずもない。すると、吉原氏も翌週の週刊ポスト(85年9月27日号)では「今回の垂直尾翼破壊が『外部衝突』によるものでなければ幸いだが」とトーンダウンした。

 にもかかわらず、その後も吉原氏は標的機の可能性を完全には捨てず、著書『ジャンボ墜落』(人間の科学社、2004年)に「オレンジ色の物体」のカラー写真を掲載している。その物体は、全体の数%程度に黄色っぽい部分が見えるものの全体としては白であり、ファイアービーなどの標的機とは明らかに色が違う。大きさも色も、墜落した123便(ボーイング747)の胴体部分の外板の一部と見て何の矛盾もない。黄色に見える部分は、プライマー(下塗り塗料)の可能性が最も高い。

 また、ファイアービー等の標的機には安全機能があり、エンジンに異常が生じたり訓練支援艦との通信が途絶したりした場合、自動的にパラシュートが開いてその場で落下する仕組みになっている。標的機にはミサイルのように航空機を追尾する機能もないし、まして御巣鷹の尾根まで飛んでいくはずもない。なぜか「日航機の左側にあるオレンジの物体を目撃した」という証言者もいるようだが、この人物の証言が矛盾だらけであることは私の著書で詳しく解説した。

「旧軍出身の司令官が戦友に暴露」という噴飯モノのデマ

 訓練支援艦あづまが現場にいなかった事実が明らかになると、今度は角田四郎という人物が『疑惑』(早稲田出版、1993年)という著書の中で、低速標的機KD2R-5改の可能性を主張した。しかし、この標的機は艦艇の主砲の射撃用の標的であり、低高度を飛行するものだ。対地角度10〜15度で発射されて195ノット(時速約360km)、運用高度7000フィートで飛行する。異常発生時に300ノット(時速約550km)、高度2万3900フィートで飛行していた日航123便に衝突するはずがない。

 角田氏はまつゆきに標的機の発射台を乗せた可能性にも触れているが、仮にそんなことをしても、訓練支援艦がいないと標的機は操縦できないことは先に述べたとおりだ。

 標的機説を信じて数冊の著書を出版した小田周二氏は、次のようなエピソードを書いている。「日航123便が墜落した当日の夕刻、航空自衛隊の基地司令官を務める人物から、ある男性に電話が入った。この司令官は、電話の向こうで男性にこう語った。『えらいことをした。標的機を民間機に当ててしまった。今、百里基地から偵察戦闘機2機に追尾させているところだ』。この司令官と男性とは、第二次世界大戦中に同じ部隊に所属していた戦友である」(『奪われた未来』文芸社、2025年)。だが、当時の空自の航空方面隊司令官、基地司令(航空団司令等を含む)を全て調べたところ、旧軍出身者は一人もいなかった。

 当時の自衛隊の主要指揮官は、旧軍経験者のほとんどがリタイヤし、旧軍経験のない一般大学出身者から防大1期生につなぐ時期だった。旧軍歴が確認できたのは、当時の森繁弘航空幕僚長(終戦時17歳で陸軍航空士官学校に在学)と古賀昭典航空総隊司令官(終戦時16歳で陸士61期生徒)の2名だけだが、終戦時は生徒として在学中で戦場に送られていない人物が「戦友」という言葉を使うのは違和感がある。そもそも2人とも事故当時に基地司令ではない(ちなみに空自には「基地司令」という役職はあるが「基地司令官」という役職は存在しない)。この旧軍歴のある「基地司令官」とは一体誰なのか。その説明責任が、著者の小田周二氏と出版社にあることは言うまでもない。

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記事【拾った財布を届けたら泥棒扱い――日航123便の垂直尾翼を回収した「護衛艦まつゆき」元乗員の怒り】では、「日航123便を撃墜した」と名指しされてきた護衛艦「まつゆき」に焦点を当てる。事故当日の行動を示す公的記録や、当時の乗員が40年以上保管していた手書きメモから見えてきた事実とは。

真殿知彦(まどの・ともひこ)
1966年、千葉県生まれ。元海将。筑波大学附属高校、防衛大学校を卒業し、89年に海上自衛官に任官。2002年に筑波大学大学院地域研究研究科修士課程を修了。その後、アジア太平洋安全保障研究センター(ハワイ)、NATO国防大学(ローマ)の課程修了。第二航空群司令、海上自衛隊幹部学校長、海上幕僚副長、横須賀地方総監などを歴任。25年12月に退官。著書に、『海軍兵学校長の言葉 激動の時代に信念を貫いた』『江戸の城攻め 戦争を知らないサムライの失敗戦略』『提督の決断 東郷平八郎と山本五十六の光と影』(いずれも三和書籍)、『日航123便墜落 「撃墜説」の真相 海上自衛隊元最高幹部が解き明かす』(PHP研究所、2026年4月から全国学校図書館協議会の選定図書)、『小栗上野介の決断 日本の近代国家をデザインした信念の幕臣』(三和書籍)がある。

デイリー新潮編集部