山崎の合戦古戦場(京都府乙訓郡大山崎町、写真:アマナイメージズ/共同通信イメージズ)


 2026年のNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』は、豊臣秀吉の弟・豊臣秀長にスポットライトが当てられ、そのユニークな視点で話題を呼んでいる。天下人となる秀吉(演:池松壮亮)を、秀長(演:仲野太賀)は右腕としていかに支えたのだろうか。第29回「天下への道」では、織田信孝から明智討伐を任された秀吉が光秀を生け捕りにしようとするが……。今回の放送の見どころについて、『戦国最高のNo.2 豊臣秀長の人生と絆』の著者・真山知幸氏が解説する。(JBpress編集部)

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秀長が支えた「中国大返し」、その先に待つ山崎の戦い

 前回の放送では「京にいた秀長が本能寺の変を目撃して、備中にいた秀吉に知らせた」という大胆な設定が話題となった。さらに、秀長が兄の秀吉に事態を知らせるも「信長生存」の可能性を残すことで、道中を急がせた──という新解釈を打ち出した。

 後世で語り草になっている秀吉の「中国大返し」について、秀長の働きぶりを存分に描いたのは、今作の大河ならではと言えるだろう(前回記事【「中国大返し」は秀吉が弟・秀長に欺かれたから? 大河『豊臣兄弟!』の新解釈が妙にリアルな理由】参照)。

 そして、今回の放送ではいよいよ、秀吉が明智光秀を討った「山崎の合戦」が描かれた。「光秀が信長を討ったものの、あっさりと秀吉に討たれてしまった」という顛末のみがよく知られているが、どんな戦いだったのか。また、光秀に勝ち筋はなかったのだろうか。解説していこう。

「本能寺の変」が起きたのは天正10(1582)年6月2日未明のことで、光秀が本能寺の織田信長を襲撃し、同日に二条御所の織田信忠も自刃に追い込まれている。このとき、秀吉は備中高松城(現・岡山市)で毛利方の清水宗治を水攻めにしている最中だった。

 光秀のクーデターを秀吉が知ったのは、6月3日深夜から4日未明頃にかけてで、6月4日に秀吉は毛利方と急ぎ講和を成立させると、翌6月5日から撤収の準備に入り、6月6日に高松を出発し、7日に姫路に到着。9日には尼崎・富田付近まで進出したと見られている。

 総距離約200km余りを数日で走破したとされる「中国大返し」だが、具体的な日割りの行軍距離や兵数の内訳は史料によって差がある。

中国大返しの通説を覆す新説、秀吉は山崎に遅参したのか

 通説では「5日に軍を返し始め、6日に高松発」とされてきたが、近年の研究では「実はすでに5日の時点で出発していたのでは」という可能性も指摘されている。その場合は、従来語られてきた「神速」のイメージよりも、実際の行軍にはやや長い日数がかかっていたことになりそうだ。

 また「秀吉軍が光秀を討った」という点のみが強調されやすいが、実際には、秀吉軍に池田恒興・高山右近・中川清秀らの摂津衆が合流。さらに信長の三男である織田信孝や、重臣らが加わると、信孝が総大将として光秀の討伐へと動き出すことになった。

 今回の放送では、そのあたりの経緯も踏まえたうえで、信孝のもとで秀吉軍のほか摂津衆や丹羽長秀らが、今後の戦略について話し合う場面が描かれた。秀吉方は秀吉軍だけで構成されていたわけではないが、その中で最大の兵力を擁していたのは秀吉軍だった。ドラマでは、その事実を信孝が秀吉にかけた次の言葉で示している。

「筑前、戦場での采配はそなたに任せる。ここにはそなたの手勢が最も多いからのう」

 その後は6月12日に、秀吉方が摂津富田に着陣し軍議を行い、13日の未明から昼にかけて山崎(現・京都府大山崎町、天王山とその麓)へと布陣を進めたとされている。

 視聴者の中には、大河ドラマ放送後の紀行コーナーでも取り上げられた「合戦の時点で秀吉本人はそこにいなかった」という新説が気になった人もいることだろう。今年(2026年)3月に中京大学教授の馬部隆弘氏によって発表されたもので、馬場氏は秀吉自身が後に作成した書状の下書きから「秀吉は山崎の合戦当日、戦場である宝積寺には不在で、後方にとどまっていた」と指摘している。

 具体的には、秀吉は6月12日に富田へ到着すると、13日の昼に山崎から約8km離れた天神の馬場で総大将・織田信孝を迎えて、13日の夜になってようやく山崎に着陣した、という行程が読み取れるという。

 とはいえ、ドラマでも描かれていたように「山崎の戦い」において、秀吉は信孝と行動を共にしている。従来の「秀吉が完璧に采配を振るって勝利した」というイメージは改める必要があるかもしれないが、遅参とまでは言えなさそうだ。主君筋にあたる信孝の到着を待っていたのかもしれない。

明智光秀はなぜ敗れた? 摂津衆の離反と根回し不足の代償

 一方の光秀方は6月13日、下鳥羽方面から山崎へ進出。この山崎で両軍が対峙したことから「山崎の戦い」と呼ぶ。兵力については史料により幅があるが、秀吉方の兵力は2万余〜4万、光秀方は1万前後〜1万数千など、さまざまな数字が記されている。

 天正10年6月13日、両軍がにらみ合うなか、山側の要地・天王山を巡って先陣争いが起き、これを制したのは秀吉方だった。以後「勝敗を分ける重要な局面」を指して「天王山」という言葉が使われるようになったのは、この故事に由来する。

 夕刻までに光秀方は崩れ、光秀は坂本城を目指して敗走。その道中、6月13日深夜から14日未明にかけて、小栗栖(現・京都市伏見区)付近で落ち武者狩りに遭い、落命したとされる。

 いわゆる「三日天下」は誇張された表現だが、本能寺の変からわずか11日で光秀の政権は崩壊することとなった。

 光秀はなぜ敗れたのか。天王山周辺の高地を巡る争いで先に秀吉方に要地を押さえられたことが大きかったが、それ以前に光秀に味方する勢力があまりに少なかった。

「中川清秀、高山右近も織田方についたとは……」

 ドラマでは、光秀の腹心である斎藤利三による、そんなセリフがあった。中川清秀や高山右近はいずれも光秀の与力として、その指揮下に組み込まれていた武将だった。

 にもかかわらず2人は秀吉方についている。特に清秀については、秀吉が中国大返しの道中に送った書状が翻意を促したとされる。書状には「信長・信忠父子が無事である」という趣旨の記述があり、この情報操作ともいえる一手が、清秀の判断を揺さぶったようだ。摂津衆の離反は光秀にとって致命的な誤算だったといえよう。

 さらに、娘婿・細川忠興とその父である藤孝(幽斎)に加担を要請するも拒否された。そればかりか、忠興は正室の玉(ガラシャ)を幽閉して光秀と距離を置いている。

 そのうえ、大和の筒井順慶にも参陣を求めるが、順慶は日和見に終始したという。このときに京都府と大阪府の境にある洞ヶ峠に陣を構えながらも、去就を決めかねたという逸話から「洞ヶ峠を決め込む」という故事が生まれている。

 実際に順慶が洞ヶ峠まで出陣したかどうかは疑問視されているが、どの陣営も積極的に光秀に味方する理由が見いだせなかったのが致命的となったのは確かだろう。「信長の弔い合戦」という大義名分がある秀吉軍とは、その点で大きく異なった。

 危機的な状況を受けて、ドラマでは斎藤利三が「土佐の長宗我部殿に織田の背後を脅かすよう書状を送っては?」と提案するも、光秀に却下されるシーンがあった。長宗我部に限らず、毛利・上杉・北条など遠方大名への調略も、とてもではないが間に合う距離ではない。

 信長を討つには意表を突くほかなかったが、その分、根回しが全くできていなかったことで、勝敗を決することとなった。

明智光秀は生きていた? 後世に広がった「生存説」の背景

 ドラマでは、信長亡きあとの織田勢は足並みがそろわず、信孝が迷走する場面や、そこにつけ入る光秀の思惑が描かれた。「明智軍にも勝機があったのでは」と思わせる展開は見ごたえがあったものの、戦そのものよりも「その後」の展開にウエイトが置かれることになった。

 今回の放送で一番話題となったのは、敗戦濃厚となった光秀が捕らえられて、秀吉と対面するシーンだろう。

 前述したように「光秀は落ち武者狩りに遭い、命を落とした」と言われているだけに「さすがに無理があるのでは」という声も多かったようだが、会談後に秀吉にこう言わせることで、整合性をとっている。

「明智殿の首は百姓の落ち武者狩りに遭い、我らに届けられたことにする」

 まさかの「光秀生存説」を思わせる展開に、SNSも大いに盛り上がった。

「光秀が実は生きている」という生存説は、江戸時代以降に広まったもの。殺されたのは影武者で、本人は名前を変えて美濃で生き延びたとする「荒深小五郎説」もその一つだ。それ以外にも、大阪府岸和田市の本徳寺には、光秀の子と伝わる僧・南国梵桂が寺を建立したという伝承があり、光秀の肖像画も伝わっている。

 最も有名なのが「光秀は徳川家康の側近僧・南光坊天海として生き延びた」とする「光秀=天海説」だ。その背景として、天海という人物は、その前半生を語る記録がほとんど残っておらず、表舞台に姿を見せるのはすでに老僧となってからのこと。この空白期間の長さが、両者を結びつける想像をかき立てたようだ。

 さらに、比叡山に「光秀」という俗名の僧の記録が残っていることや、光秀の死から33年後の日付が刻まれた石灯籠の存在なども、この説の根拠として語られやすい。

 こうした「生存説」が生まれる下地には、光秀という人物を語る際に頼らざるを得ない史料の事情がある。光秀の人物像を最も詳しく伝えるのは、元禄年間(1688〜1704年頃)に成立した軍記物『明智軍記』だ。

 ただしこの書物、書かれたのは光秀の死からおよそ一世紀も後のこと。研究者からは事実誤認が目立つとして厳しい評価が下されてきた書物でもある。

 それでも同書は、光秀を「信長の悪政を正した人物」として好意的に描いており、謀反人という一面的な評価にとどまらない光秀像が広まる一因となった。生存説の広がりも、こうした後世の脚色や美化の流れと無縁ではないだろう。

 今回の放送では、死罪を免れたかに見えた光秀だが、今後のストーリーにどう絡んでくるのか注目したい。

 次回(8月9日放送)は「清須会議」がクローズアップされる。織田家の重臣たちがどんな駆け引きを繰り広げるのか楽しみである。

【参考文献】
『現代語訳 信長公記』(太田牛一著、中川太古訳、新人物文庫)
『豊臣秀吉 秀吉新王ニナリ秀長ハ関白ニ成ル』(藤井讓治著、ミネルヴァ書房)
『明智光秀』(高柳光壽著、吉川弘文館)
『明智軍記』(二木謙一校注、KADOKAWA)
『信長と消えた家臣たち 失脚・粛清・謀反』(谷口克広著、中公新書)
『図説 豊臣秀長 秀吉政権を支えた天下の柱石』(河内将芳著、戎光祥出版)
『豊臣秀長』(シリーズ・織豊大名の研究14、柴裕之編著、戎光祥出版)
『豊臣秀長のすべて』(新人物往来社編、新人物往来社)
『戦国最高のNo.2 豊臣秀長の人生と絆』(真山知幸著、日本能率協会マネジメントセンター)

筆者:真山 知幸