父・尾崎豊と同じ「社会」に視点を向けた息子・尾崎裕哉…DNAの力に母・繁美が驚いた父子の共通点

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カリスマ的人気を誇っていたシンガーソングライターの尾崎豊さんと18歳で運命的に出会い、20歳で結婚をした尾崎繁美さん。さまざまな紆余曲折を経て、21歳で息子・裕哉さんを出産。やっと家族の幸せを掴むと思った矢先、繁美さんは24歳で最愛の夫と死別するという想像を絶するような凄絶な別れを経験しています。

尾崎豊さんの没後30周年を機に、繁美さんは封印を解くように連載『30年後に語ること』として発表。その後、2023年7月からは、豊さんが旅立ってからの、息子の裕哉さんと暮らしたボストンでの日々を『笑顔を守る力』として定期的に寄稿いただいています。

前編は、父と同じ道に進むという夢を持ち始めた息子・裕哉さんに、歌詞を書ける日本語力と感受性を身に付けるために、日本の大学に進むことを勧めた繁美さんの想いについてお伝えしました。

以下より、尾崎繁美さん自身の寄稿です。

父が経験できなかった「大学生活」

もうひとつ、私が裕哉に対して密かに願っていたことがあります。それは、裕哉自身が大学生活をきちんと楽しむことでした。友達をたくさん作って、学び、笑い合い、悩んで、夜更かしをして、恋をして......。どうでもいい話を延々として、その関係を大切に育ててほしいなと。

大人になって思い出すのは、授業の内容よりも、誰と出会い、どんな時間を過ごしたかだったりします。だから私は、裕哉には人との縁を育てる時間を持ってほしいと願ってました。それは、父である尾崎豊には叶えきれなかった時間でもあるからです。

豊は高校を自主退学しました。そのことは、若気の至りと言えなくもありません。ただ、あのころの彼にとっては、教室で知識を学ぶことよりも、誰かと青春を分かち合うことよりも、胸の奥に溜まった言葉を歌として世の中に放つことが、何より先にある役割だったのだと思います。

その選択は結果的に、作品という形で多くの人の心に届き、彼を一気に“表現者”へと押し上げていきました。けれど結婚してから、ふとした会話の中で、豊が大学について語ることがあったのです。

「大学に行って学びたい」

「そのためには大検を受けないと」

そんな言葉を何度か聞いたことがあります。

それは「学歴」や「肩書き」への未練ではなく、「学ぶ」という姿勢そのものへの関心でした。物事を筋道立てて考えること。世界を客観的に見つめたり、議論の中で自分を磨くこと。何より師と呼べる人から教えを請うこと。彼が語っていたのは、そうした学びの在り方だったように記憶しています。

そのとき私は、豊が“言葉”の人であると同時に、“学び”に対しても誠実な人だったのだと改めて気づかされました。

世界的な社会貢献家に影響を受けた息子

だからこそ、裕哉には大学という特別な学びの場で、人生の土台となる時間を過ごしてほしかった。ひとりで世界を背負い込むのではなく、たくさん友達と出会い、一緒に笑い、その関係を大切にしながら自分の世界を拡げていってほしい。

人と語り合い、ぶつかり合い、時には迷いながら、そうした時間の中で、人を信じること、人の弱さを知ること。そのひとつひとつの経験が、いつか歌詞を書くときに、言葉の厚みとなって戻ってくる。なぜなら歌詞は人生からしか生まれない、と私はそう信じていたからです。

アメリカンスクールで育ち、AO入試を経て慶應大学へ。裕哉は構想を練りながら何ヵ月もかけてプレゼン資料を作り、「何を学びたいのか」「なぜ日本なのか」「何を表現していきたいのか」を自分の言葉で組み立てていきました。

彼が掲げたテーマは、「Music Saves the Earth」。

高校生のとき、“子どもの教育が世界を変える”の信念のもと、途上国などで教育支援を行っている世界的なNGOの『Room to Read』創設者であるジョン・ウッド氏が来校したことをきっかけに、裕哉の中に「社会起業家」という視点が芽生えていきました。さらにグラミン銀行を創設し、ノーベル平和賞受賞者のムハマド・ユヌス氏の思想にも触れながら、「音楽を通して社会に貢献できないか」という問いを軸にプレゼンテーションしました。

音楽を自己表現としてだけではなく、社会と関わり、人の役に立つための手段として捉え始めた姿に、父とはまた異なる形で音楽と向き合おうとしている息子の意思を感じました。

私にとって大切だったのは、大学受験の合否そのものというより、息子がそこに至るまでのプロセスでした。ひとりの人間として、自分の言葉で自分を語ろうとする姿を見ながら、彼が自分の足で人生を歩き始めていることを実感したのです。

豊が経験できなかった大学生活を、裕哉自身の人生でしっかりと味わってほしい。学び、出会い、揺れながら、言葉の引き出しを増やしていってほしい。そして、いつか歌うのなら......父の言葉でも、誰かの言葉でもなく、まぎれもなく彼自身の言葉で、この世界と向き合える人になってほしい。その願いだけは、今も変わらず私の中にあります。

父から息子へ受け継がれるものがあるとすれば、それは名前でも才能でもなく、「生き方」そして、「問い続ける心」なのかもしれません。

結局つながる父と同じ視点

裕哉が大学在学中に出会った言葉のひとつに、「ソーシャルアントレプレナー(社会起業家)」という概念があります。社会の課題を、自分の仕事や活動を通して解決していこうとする人のことです。裕哉はその言葉に強く惹かれたようでした。

つまり、自分もまた「何かの形で社会に貢献していく人でありたい」。

そんな思いが、彼の中に芽生えていったのです。

慶応義塾大学の入試の際、彼はマインドマップを使って自分の将来像を描いていました。その中心に書かれていた言葉が、

“Music Save the Earth”。

音楽という手段を通して、地球や社会に貢献したい。そんな壮大なテーマでした。

その図を見たとき、私は少し驚きながらも、どこかで納得していました。アメリカで教育を受けてきた環境の影響もあるのでしょう。社会と自分の志を切り離さず、「どう貢献できるのか」を自然に捉える思考が、彼の中に育っていたのだと思います。

裕哉が影響を受けた人物としてよく名前を挙げていたのが、教育支援団体「ルーム・トゥ・リード」を創設したジョン・ウッド、そしてグラミン銀行を創設したムハマド・ユヌス博士でした。社会の仕組みそのものを変えるような挑戦をしてきた人たちです。

そしてもうひとり、彼にとって何より大きな存在がいました。

父である尾崎豊です。彼もまた「歌うこと」で社会に向き合ってきた人でした。

1984年、日比谷野外音楽堂で開かれた反核ライブイベント「アトミック・カフェ」で、豊は『核(CORE)』という曲を歌いました。この曲は後に、1988年に12インチシングルとして発売されています。

『核(CORE)』のタイトルには、反核という社会的テーマと同時に、人間の"心の核"という意味が込められていました。豊は反戦や反核というテーマを、ただ政治的な言葉としてではなく、人間の心の奥にある恐れや孤独、そして愛への渇きを表現したのだと思います。社会の不調和に怯えながらも、それでも愛を信じたい。そんな切実な感情が、歌に溢れていました。

〈抱きしめて 愛してる それだけなのに〉

この言葉の真髄には、世界の緊張や不安の中で、それでも人が求め続ける「平和」への祈りがありました。豊は、国家や思想を語るのではなく、まず人間の心の深いところにある感情に触れようとしたのだと思います。

さらに1991年には『Cookie』という曲も発表しています。1990年に始まった湾岸戦争の影響が色濃く残る時代の中で、豊は日常の平和の尊さを歌いました。私たちの暮らしの延長線にある「平和」という視点から。

裕哉と豊。ふたりのアウトプットの形は違います。けれど、「自分の表現を通して社会とつながりたい」という核の部分は、どこか似ているようにも感じます。父が残した歌の奥にある視点が、時を越えて息子の中に響いているのかもしれません。

そして今も、世界では戦争が止むことなく、不安定な時代が続いています。

音楽という“ひとつの祈り”が、この揺らぎの多い時代の中で、誰かの心に灯り続けていくことを願っています。

【前編】誰もが知る父・尾崎豊と同じ道を歩む…息子・裕哉の夢に母・繁美が厳しく言い続けた「自分の言葉を持つ大切さ」