イチローの決勝タイムリーに日本中が湧いた…山田久志、渡辺俊介、内川聖一が明かす「あの日のWBC秘話」

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3月5日、連覇をかけた戦いが始まる。17年前、イチローの決勝タイムリーに日本中が沸いた「伝説の大会」を、侍たちが振り返る。

山田久志(やまだ・ひさし)/'69年、阪急へ入団。アンダースロー投手として活躍し、通算284勝を挙げた。第2回大会では投手コーチを務めた

渡辺俊介(わたなべ・しゅんすけ)/'01年、千葉ロッテに入団。「ミスターサブマリン」と呼ばれ活躍。WBCには2大会を通じて5試合に登板した

内川聖一(うちかわ・せいいち)/'01年、横浜に入団。首位打者2回、通算2186安打。WBCには3大会に出場。第2回では優勝に大きく貢献した

キャンプから大盛り上がりだった

山田:3月5日に開幕する今回のWBCで日本代表は、第1回('06年)・第2回('09年)以来の連覇に向けて戦うことになる。いま振り返っても、第2回のメンバーはまさに侍の集まりでした。第1回に続く出場だった俊介と、前年に首位打者を獲った若手野手の内川は、本当に頼もしい存在だったなあ。

渡辺:WBCの思い出として忘れられないのは、第1回大会の前に王貞治監督から直接、代表入りを打診されたことです。'05年のシーズン中、千葉ロッテと福岡ソフトバンクの試合の日でした。ロッテベンチから相手の打撃練習を眺めていると、王監督が僕のところに近づいてきて、目の前で立ち止まった。そして、「(来年の第1回WBCでは)先発の柱のひとりとして考えている」と。突然の出来事にドキドキして、体温が上がったことを覚えています。

第2回を率いた原辰徳監督からは、「経験を若手に伝えてくれ」と言われました。当時、僕は32歳。投手陣最年長として、いわば何でも屋のような役割を任されました。

内川:僕もWBCには3大会('09年、'13年、'17年)出場することができましたが、野手最年少だった第2回は緊張のあまり宮崎合宿初日の記憶がほとんどないんです。はっきり覚えているのは走塁練習をしていた時のこと。イチローさんが僕のところまで走って来て、「ウッチー、去年すごかったらしいじゃん。打率いくつだったの?」と。僕のことを知ってもらえていることにまず驚いた。「・378です」と答えると、「すごいね、やっちゃったね」って(笑)。あの時は舞い上がりました。

山田:第1回大会で優勝したことで、第2回は宮崎キャンプから大盛り上がりだった。詰めかけたファンで道路が大渋滞して、選手を乗せたバスが練習に間に合わないこともあった。期待が大きい分、連覇への重圧は大きかった。

内川:イチローさんをはじめあれだけのメンバーが集結すれば、野球ファンは観に行きたくなりますよね。

こっそりイチローを呼んで……

山田:原監督は、投手コーチである私に投手起用に関しては一任してくれました。同時に、もう一つ大きな役割があった。それは、イチローの話し相手になること。すでにさまざまな記録を打ち立てていたイチローには、他の選手たちも遠慮がちになってしまう。そこで、「イチローの考えを他の選手たちに伝えてもらえれば助かります」と原監督から言われていたんだ。

ただ、いざ侍ジャパンが始動してみると、イチローはそこまで気難しい男ではなく、私が仲介する必要なんてなかった(笑)。

渡辺:もの静かなイメージがあるイチローさんですが、大会中は喜怒哀楽を前面に出して、人間らしい魅力的な部分を我々に見せてくれましたね。WBCにかける想いや覚悟も伝わってきた。イチローさんを中心にまとまったチームでした。

山田:原監督はイチローを3番に置いて、打点をあげるポイントゲッターに考えていた。ところが、イチローは大会前の強化試合でなかなか調子が上がらなかった。そこで神宮球場で練習をしていたときに、原監督から「何番を打ちたいのか、イチローに聞いてみてくれ」と言われたんです。

マスコミやほかの選手たちに気付かれないようにイチローを呼んで、「監督が心配しているぞ。お前は何番が打ちたいんだ?」と訊ねた。すると、「チームの方針に従いますが、できるなら1番を打ちたい」と。そこで、本番ではイチローを1番に置いたが、それでも調子は上向かなかった。

内川:イチローさんに僕ら若手が何か声をかけるなんてことはできない。そこで、イチローさんのストッキングの穿き方をみんなで真似した。「僕らも一緒に戦います」という意思が届いてくれればとの思いでした。

渡辺:今回のWBC前の宮崎合宿には、アドバイザーとしてダルビッシュ有選手が参加した。第2回のとき、不調のなかで日本のためにできることを模索するイチローさんの姿を見たからこそ、出場できなくても代表に貢献しようと考えたのかもしれませんね。

ダルビッシュを抑えにした理由

山田:出番は少なかったかもしれないけれど、俊介は大事なところでマウンドに上がり、日本の助けになってくれた。

渡辺:かつてアマチュアが五輪などの国際大会に出場していた時代は、キューバやアメリカに僕のようなアンダースローの変則投手が少なからず有効でした。やはり、球の出所が見づらいですし、変化球も見慣れていない軌道になりますから。ただ、僕は2大会をつうじて韓国戦の4試合に登板しましたが、韓国が下手投げの投手を苦手にしているわけではなかったですね。

内川:きつかったのは第2ラウンド初戦のキューバに勝利したあと、2戦目の韓国にダルビッシュ選手が先発して初回に3点を奪われ、1対4で負けた時ですよね。

山田:敗者復活にまわり、再びキューバと対戦することになった。

内川:負ければ終わりという試合前、ミーティングでの原監督の「たとえ話」が印象に残っています。「侍ジャパンは徳俵に足がかかっている状態だ。しかし考えてもみろ。徳俵に足がかかっている時こそ、踏ん張ることができて相手を押し返せるんだぞ」と。

他にも、心に響いた原監督の言葉はありました。4度目の韓国戦(第2ラウンド1位決定戦)の前に、「去年のバッティングは形が違ったぞ」という簡潔なアドバイスをいただいた。そのおかげでホームランを打つことができました。

山田:第2ラウンドを1位通過し、サンディエゴからロサンゼルスに移動。準決勝をアメリカと戦うことになった。当初、準決勝は投手陣の柱である松坂大輔に託し、決勝はダルビッシュを先発させる予定だった。しかし、抑えである藤川球児の調子が上がっていなかったため、ロサンゼルスに向かうバスの中で、私は原監督に相談もせずに、ダルの抑え起用と決勝での岩隈久志の先発を決めた。

そして、会場のドジャースタジアムに着いてから、まずはダルに「抑えで考えているからな」と話し、その後、原監督に「決断してください」と伝えた。アメリカ戦の8回表の攻撃中にブルペンに電話を入れてダルが準備を始めた。そこでみんなが気付いたと思います。アメリカ戦をダルが締めくくったことで、ようやく侍ジャパンの勝利の方程式は決まった。

内川:迎えた決勝の韓国戦は、大会つうじて5度目の対戦でした。

山田:5回裏、秋信守に本塁打を打たれて同点に追いつかれたあと、レフト線に飛んだ当たりを内川がスライディングして逆シングルで捕球し、すぐに二塁に送ってアウトにした。あれは大きなプレーだった。あそこで逆転を許さなかったことで、韓国に流れを渡さなかったんだから。

内川:後逸していたら得点を奪われていたかもしれない、リスクの大きな守備でした。結果的には良かったけれど、いま振り返ると、若さゆえの大胆なプレーでした。

後編記事『大谷翔平を擁する日本は「準備面でも世界一」山田久志、渡辺俊介、内川聖一が語るWBCの舞台裏』へ続く

「週刊現代」2026年3月16日号より

【つづきを読む】大谷翔平を擁する日本は「準備面でも世界一」山田久志、渡辺俊介、内川聖一が語るWBCの舞台裏