伝説の国際的女優サラ・ベルナールら、女性が輝き、才能を開花させた「ベル・エポック」とはどんな時代だったのか?
シュザンヌ・ヴァラドン《フルーツ鉢》1917年 デイヴィッド・E.ワイズマン&ジャクリーヌ・E.マイケル蔵 ©Christopher Fay
(ライター、構成作家:川岸 徹)
19世紀末のパリにて幕が開いた「ベル・エポック」の時代。華やかなこの時代に生まれた芸術や文化を複合的に紹介する展覧会「ベル・エポック―美しき時代 パリに集った芸術家たち ワイズマン&マイケル コレクションを中心に」が東京・パナソニック汐留美術館で開幕した。
ベル・エポックとは?
19世紀末から第一次世界大戦が開戦する1914年頃まで、パリが芸術的にもっとも華やいだ時代は「ベル・エポック」と呼ばれている。直訳すれば、良い時代、あるいは美しい時代。第一次世界大戦が終結し、大きな被害を受けたヨーロッパの人々が戦前を懐かしんで、「ああ、戦争前のあの頃は良かった」と振り返って使われるようになった言葉である。
ベル・エポックは、確かに良い時代であったのだろう。美術、工芸、舞台、音楽、モード、科学と様々なジャンルで新しい文化が花開いた。パナソニック汐留美術館で開幕した「ベル・エポック―美しき時代 パリに集った芸術家たち ワイズマン&マイケル コレクションを中心に」は、そうしたベル・エポックの精華を重層的に紹介する展覧会。
トゥールーズ=ロートレックやジュール・シェレによるポスター、エミール・ガレやルネ・ラリックの工芸品、シャルル・ボードレールやポール・ヴェルレーヌの初版本、マルセル・プルーストの自筆書き込みが入った校正刷。当時のブルジョワ階級の女性や子供が身に着けた衣服や装身具も展示されている。
ジュール・シェレ《ムーラン・ルージュ》1889年 デイヴィッド・E.ワイズマン&ジャクリーヌ・E.マイケル蔵 ©Christopher Fay
同時にベル・エポックは、女性が活躍する時代でもあった。世紀末のパリではフェミニズム運動が高まりを見せ、社会的自立を目指す女性が増加。医師や弁護士など、かつては男性の仕事であった職業にも女性が就くようになった。1903年には“キュリー夫人”の呼び名で知られる物理学者・化学者のマリー・キュリーが、放射線の研究でノーベル物理学賞を受賞。1911年にはポロニウムとラジウムの発見により、ノーベル化学賞を受賞している。
サーカス団員だったヴァラドン
ベル・エポックの時代には芸術の分野でも女性が優れた才能を発揮し、目覚ましい活躍を見せている。その中から、2人の女性をピックアップして紹介したい。女性画家がほんの一握りしかいなかった美術界で精力的に作品を発表した画家シュザンヌ・ヴァラドンと、パリだけでなくイギリスやアメリカでも活躍し舞台芸術の分野で伝説的な女優になったサラ・ベルナールだ。
シュザンヌ・ヴァラドンは画家よりも、「ユトリロの母親」「ルノワールの絵のモデル」として知られているように思う。ヴァラドンは1865年、当時最下層の職業といわれた洗濯婦の私生児として生まれ、パリの労働者階級が住むモンマルトルで育った。14歳でサーカスの空中ブランコ乗りになるが、ブランコから落下し怪我を負う。復帰はかなわず、生活のためにやむなくモデルに転向した。
個性的な美貌と肉感的な身体の持ち主だったヴァラドンは、たちまち売れっ子のモデルに。シャヴァンヌ、ルノワール、ロートレックら、名だたる画家たちが彼女をモデルに作品を制作した。ルノワールの代表作のひとつとして名高い《ブージヴァルのダンス》や、ロートレック《二日酔い》など数々の名画に彼女の姿を見ることができる。
画家として成功をつかむ
もともと絵を描くのが好きだったヴァラドンはモデルを務めながら、画家たちの技法を吸収したのだろう。彼女の画力は急速に高まっていく。その腕前に感嘆したのが、画家エドガー・ドガ。ヴァラドンに絵の手ほどきをするようになり、油彩のほか、エッチングやドライポイントの技法も指導した。彼女の作品はサロンに出品するレベルに達し、1895年には画商アンブロワーズ・ヴォラールの画廊で初めての個展が開催されている。
今回の「ベル・エポック」展では、ヴァラドンの作品3点が鑑賞できる。黒チョークとパステルによる《座る二人の女性》、エッチング《ベッドにもたれる裸のルイーズ》、油彩画《フルーツ鉢》。いずれも様々な画材を自分のものとして巧みに扱う、彼女の技術力の高さが感じられる名品だ。特に《フルーツ鉢》は強い色彩と明確な輪郭線、平面的な筆致が前衛的な雰囲気を感じさせ、心にぐっと踏み込んでくる。美術学校に通わず、恵まれた教育を受けずとも才能を開花させられると証明したヴァラドン。その点でもヴァラドンは、新しい時代を切り開いた画家といえる。
伝説の大女優サラ・ベルナール
アルフォンス・ミュシャ《サラ・ベルナール》1896年 堺 アルフォンス・ミュシャ館(堺市)蔵 [展示期間:10/5〜11/12]
ベル・エポックを代表する大女優サラ・ベルナールも裕福な家の生まれではない。母親はパリで高級娼婦として働き、1844年に私生児である娘サラを生んだ。
里子に出され、幼少期を修道院で過ごしたサラは、15歳で母親の元に戻った。その母親に連れられて出かけた、王立劇場コメディ・フランセーズ。生まれて初めて芝居を鑑賞したサラは、「女優こそ私の転職」と確信したという。
その確信に間違いはなかった。女優の道を歩み始めたサラは瞬く間にスターダムを駆け上がっていく。ヴィクトル・ユゴーに「黄金の声」と激賞され、瞳の微妙な動きだけで観客を虜にする目は「神秘の窓」と評された。ジャン・コクトーは彼女を「聖なる怪物」と呼んでいる。
サラが見出した2つの才能
彼女は自身がスターであると同時に、スターの卵を発掘する力にも長けていた。サラが舞台『ジスモンダ』(1894年)を演じた時、「たまたま手が空いていた」という理由で無名だったアルフォンス・ミュシャがポスター制作を手がけることになった。その出来に将来性を見たサラは、無名の新人と6年間の専属契約を締結。ミュシャはサラの舞台ポスターを次々に発表し、才能あふれる若きアーティストとして名を馳せていった。本展で展示されている《サラ・ベルナール》は、ミュシャの代表作のひとつとして知られている。
ルネ・ラリック《ペンダント「白鳥」》1897-1899年頃 箱根ラリック美術館蔵
ルネ・ラリックもサラに才能を見出された芸術家のひとり。サラはフリーの宝飾デザイナーとして働いていたラリックに注目。当時は大粒のダイヤモンドなど石の力が重視されていたが、デザイン性で勝負するラリックに未来を感じたのだ。二人の最初のコラボ作品《舞台用冠 ユリ》(1895年頃)は、『遠国の姫君』の劇中でサラが着用したもの。その後、ラリックは舞台だけでなく、サラのプライベートの装飾品も手がけるようになった。
フランスのみならず、五大陸で海外公演を成し遂げたサラは「世界最初の国際的スター」。展覧会の会場ではサラ・ベルナールの貴重な映像を見ることができる。物語や写真でしか知らなかった伝説のスターが、画面の中で動いている! お見逃しなく。
「ベル・エポック―美しき時代 パリに集った芸術家たち ワイズマン&マイケル コレクションを中心に」
会期:開催中〜2024年12月15日(日)※会期中、一部展示替えあり
会場:パナソニック汐留美術館
開館時間:10:00〜18:00(11月1日、11月22日、11月29日、12月6日、12月13日、12月14日は〜20:00)※入場は閉館の30分前まで
休館日:水曜日(12月11日は開館)
お問い合わせ:050-5541-8600(ハローダイヤル)
*土曜日・日曜日・祝日は日時指定予約(平日は予約不要)
https://panasonic.co.jp/ew/museum/
筆者:川岸 徹