日本の哲学者にはこの不条理な世界がどう映っていたのか…生き方が変わる「最強のヒント」

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明治維新以降、日本の哲学者たちは悩み続けてきた。「言葉」や「身体」、「自然」、「社会・国家」とは何かを考え続けてきた。そんな先人たちの知的格闘の延長線上に、今日の私たちは立っている。『日本哲学入門』では、日本人が何を考えてきたのか、その本質を紹介している。

※本記事は藤田正勝『日本哲学入門』から抜粋、編集したものです。

「心」について考える

私たちは通常、一方に自分の外にある対象を表象する、あるいは認識する「意識」、別の表現を使えば、「心」というものを考え、そして他方に、意識によって表象される「物」を考え、そのあいだに認識なり、行為という関係が成立すると考えている。

その考えを徹底していくと、意識の外部には、私たちが見たり、聞いたり、触ったり、味わったりする以前の、単なる物体の世界が広がっていることになる。目の前の梅の花が白く、あるいは赤く見えたり、かぐわしい香りがしたりするのは、私たちがそれを見たり、その匂いを嗅いだりするからである。つまり、外から与えられた情報が脳に伝えられるからであって、それ以前には、色も味も香りもない単なる物体──それを細かく分析していけば、原子の世界、さらにはクオークの世界に行きつく──が広がっているだけであるという自然科学的な見方につながっていく。それに対して私たちの方は、その外部の世界の情報を感覚器官を通して受け取り、それを脳に伝える。そこに色や匂い、味で満たされた意識の世界、「心」の世界が作りあげられていくと考えられる。

両者を区別する立場からは、当然、前者が原因であり、後者はたまたま生じた結果である。したがって前者こそが第一次的な存在であり、後者は第二次的、あるいは派生的な存在であると考えられる。

また、外部世界は、誰が計測しても同じ結果が得られる客観的な世界であるのに対し、意識の世界は、それを見たり聞いたりする人によって異なる。たとえば物の見え方は、立つ位置によっても異なるし、光の当たり方とか、目の病気とか、その状況に大きく左右される。味や匂いは、文字どおり、受け取り方が人によって大きく違う。そこから意識の世界は、主観的であいまいな世界であるという見方が生まれてくる。つまり、物理の世界が絶対確実であるのに対し、私たちの意識の世界は不確かで、信頼性に欠けるものだと言われることになる。

「昼の見方」とは何か

しかし、そのような仕方で外部の世界と内部の世界を対置するのはおかしいのではないか、という考えが西田にはあったと考えられる。西田が『善の研究』改版の序のなかで、「色もなく音もなき自然科学的な夜の見方に反して、ありの儘が真である昼の見方に耽った」というグスタフ・フェヒナーのことばを引用したことも、そのことを示している。

「色もなく音もなき自然科学的な夜の見方」というのは外部の客観的な世界と内部の主観的で派生的な世界とを対置し、前者こそが真実の世界であるとする立場に浮かび上がってくる光景である。それに対して「ありの儘が真である昼の見方」というのは、「純粋経験」の立場に映る風光を指す。

たとえば美しい花を見たとき、私たちはそれを単なる原子の集まりとして「純物体」的に見ているのではなく、──西田の表現で言うと──「生々たる色と形とを具えた」ものとして見ている。それは単なる知覚の対象ではなく、私たちに潤いややすらぎを与えるものである。そういう観点から西田は、物は知だけではなく、「情意より成り立った者」(八二)であると言う。見たり聞いたりする行為は感情や意志とも深く関わっているのである。そのように知と情と意が一体になった経験のなかにおいてこそ物がリアリティをもって現前しているというのが西田の理解であった。「ありの儘が真である昼の見方」ということばはそのことを指している。

この「昼の見方」のなかでは、言いかえれば経験の現場においては、主観と客観というような区別も、対置もない、ただ実在の現前があるのみであると西田は考えたと言えるであろう。この「実在の現前」こそ、純粋経験にほかならない。

さらに連載記事〈日本でもっとも有名な哲学者はどんな答えに辿りついたのか…私たちの価値観を揺るがす「圧巻の視点」〉では、日本哲学のことをより深く知るための重要ポイントを紹介しています。

日本でもっとも有名な哲学者はどんな答えに辿りついたのか…私たちの価値観を揺るがす「圧巻の視点」