青い芝の魔力を追って

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障害の重度化を当事者はどうとらえているのか。ある重度障害者には常人にはない発想があった。体は衰えても、あらゆる機会を通して人とつながろうとする気力は健在だった。障害者を取り巻く世界は、何が変わり、何が変わらなかったのか。短くない取材期間を通して私が考えたこと。

本記事は『カニは横に歩く 自立障害者たちの半世紀』(角岡伸彦著・講談社刊)の一部を抜粋・再構成したものです。

『カニは横に歩く』第8回

第7回「『最後の障害者』とふるさとの祭りへ」より続く

知り合って27年、作品完成までに17年

兵庫青い芝のメンバーと知り合ってから27年が経つ。大学に入学したばかりの青年だった私は、本書を書き終えた今、40半ばの中年になってしまった。27年前に壮年だった兵庫青い芝の澤田隆司や福永年久は、今や老境に達している。彼らも私も、人生の残り時間を考えるようになった。

彼らと知り合ってちょうど10年目の93年に、私は5年ほど勤めた地方紙を退職した。次に何をするかを決めないままの突然の決断であった。書くことにさほどの未練はなかったが、退職を機に学生時代に続けていた障害者の介護を本格的に再開すると、青い芝の活動やその周辺でうごめく人々を活字に残しておきたくなった。それが本書の始まりである。

それから完成までに17年もかかってしまったのは、私の怠惰な性格が主因であることは間違いがないが、それだけではない。優生思想を主敵として闘ってきた青い芝を書くには、それなりの勉強と取材が必要である。そう考えて資料を集めては読み、関係者に会いに行ったが、何をどう書いていいのか見当がつかず、しばしば立ち止まった。なにせ「あるがままの生」をどう考えるかというとてつもなく遠大なテーマである。幾多の闘争があり、それにいろんな人がからんでくる。出るのはため息ばかりで、私はすっかり自信をなくし、何年間も放ったらかしにしていたこともあった。

でもまあ、せっかく取材を続けてきたんやからと思い直し、実際に書き始めたのは、2007年の5月からだった。それから脱稿するまでに3年もかかっている。自分の遅筆に嫌気がさしつつ、よくも悪くもこんな無茶苦茶な人らをそう簡単に書けるわけないわ、と自分を納得させていた。

空を飛べない自分に悩まない

やたらに時間はかかってしまったが、ではなぜ私は彼らから離れることができなかったのだろうか?

それは彼らが持つ魔力であるように思う。その怪しい力の一つが、常人にない発想である。

和歌山センター闘争や川崎バスジャックに参加した広島青い芝の松本孝信に取材した時のことである。松本は以前は自転車に乗り、センター闘争では、自らバリケードを築き、仲間を針金で縛れるほどの“動ける障害者”であった。その後、障害が重度・複合化し、今は屋内ではベッド、屋外では寝台型の車イスを使用する“寝たきりの人”となっている。

徐々に動けなくなった体をどう考えているのか。私は彼に問うた。真冬であるにもかかわらず浴衣姿の松本は、ベッドの上でこう語った。

「鳥は空を飛べるわな。そやけど、わしが空を飛ばれへんからいうて困るか?困らへんやろ。ほなわしも、健全者がええとは思わへんやん」

空を飛ぶ鳥を見て、なぜ自分は飛べないのかと迷わないように、松本はできないこと、できなくなることについて、あれこれと思い悩まないというのである。その言葉を負け惜しみで言っているわけではないことは、彼を含めた青い芝の取材を続けてきた私に疑う余地はなかった。

障害のあるなしにかかわらず、どんな情況になろうとも、もっとも強いのは、このような思想を持つ人間ではないかと私は思う。彼もまた“あるがままの生”を受け入れることができる数少ない最後の障害者の一人であった。

その松本から、最初に取材した日の数日後に電話があった。今度、大阪に行く用事があるんやけど、ヘルパーが見つからんのであんたに頼まれへんか、という用件だった。一度会っただけで介護を頼む松本の極太の神経に私は嬉しくなり、すぐに応諾した。後にヘルパーが見つかり、介護する機会は失われたが、どんな手段を使ってでも他人の手を煩わす障害者は、ここにもいた。

岸壁を離れる船に「まだ間に合う!」

あるがままの生を受け入れる柔軟かつ強靭な精神力に加え、彼ら青い芝の中心メンバーに共通するのは行動力である。私は福永年久と接して、この男の並はずれたそれに驚愕したことが幾度かあった。

93年に福永、澤田と韓国を訪れたことは本書の中で触れた。出発日を1日遅く勘違いしていた私のせいで、一行は出航地の山口県下関港にギリギリの時間で着いた。急いで手続きを済ませ、フェリーに乗り込むべく、二台の車イスは岸壁を突っ走った。しかしタラップはすでに取り払われ、船はすでに岸壁を離れつつあった――。その時、福永が船を指さしながら、叫んだ。

「行けー!まだ間に合う!行けーーーーーー!!」

私は耳を疑った。間に合うって、船はもう岸壁を離れてるやんか!

無論、乗船はできなかったのだが、不可能を可能と信じ、周囲を巻き込む福永の底なしの恐ろしさを、その時に痛感したのだった。

2007年には、神奈川青い芝の横田弘ら3人の脳性マヒ者を福永自らがインタビューした映像記録『こんちくしょう』が完成した。自立第一世代の苦労話を若い障害者に見せたいという福永の思いつきから制作されたもので、私もスタッフの一人としてかかわった。

取材対象の三人のうちの一人は、80歳近くの高齢者で、言語障害がある上に歯がないため、撮影した映像を見ても何をしゃべっているのか皆目わからない。インタビューした福永もわからないという。わからないまま、適当にあいづちをうっていたのである。しかし、わからないものはどうしようもない。仕方なくインタビューした本人に映像を送り、発言内容を確認してもらった。ところが当の本人も、自分が何をしゃべっているのかわからないという。聞き手も話し手も発言内容がわからないという事態に、最初は激怒していた私も、最後は笑ってしまった。最終的に話し手と付き合いの深い人物が解読することに成功したのだが、このような紆余曲折があっても、なんとか作品を完成させてしまうところが福永の不思議なところであった。

そんな周囲を巻き込む奇妙な魔力や発想・行動力が、元介護者の私に一冊の本を書かせたのだと今になって思う。

変わったこと、変わらないこと

彼らと知り合ってから、また取材を始めてからも障害者を取り巻く情況は随分と変わった。

数十年前まで、ほとんど街で見かけることがなかった障害者は、今や珍しくなくなった。都会の公共施設・交通機関には、エスカレーターやエレベーターが設置されるようになった。車イスで入れる飲食店も増えた。有料ヘルパー制度が発足し、以前に比べれば容易に自立できるようになった。

90年代半ば以降、神戸の障害者には、中国・内モンゴルからの留学生が介護に入るようになり、今もそれは続いている。海と陸の向こうの人が介護に入ることは、数十年前には考えられないことだった。

兵庫青い芝で活動していた自立障害者は、かつては隣や階上の声や物音がまる聞こえのボロアパートに住んでいたが、今は風呂付きの清潔でゆったりとした公営住宅の住人となっている。

数年前、福永の家の居間で「ここでタバコを吸うな!肺ガンで殺す気か!」という貼り紙を見つけた。福永も私も喫煙者ではないが、少なくない介護者は愛煙家である。何十年も近くで紫煙を吸い込み続けている福永に「もう遅いで!」と言いたかったが、このような警告を発するのも時代が変わったからであろう。

このような様々な変化は、喜ぶべきことである。しかしどれだけ介護がシステム化され、科学技術が進歩しようが、変わらないのが障害者と健全者が関係を築くことの難しさであり、多くの人の意識に沈澱し続ける優生思想である。

本書では、主に兵庫青い芝の運動を通してそれらに迫ったつもりである。取材と執筆をし終えてあらためて感じるのは、そのような小難しい話ではなく、各メンバーの存在感である。あてにできる制度がない時代に、重度の障害者が周囲を巻き込んで生活すること自体が、彼らの運動であったように思う。

しかし、福永がもし障害を持って生まれていなくても、あるいは澤田が子供の頃に日本脳炎にかからなかったとしても、彼らは周囲に何らかの影響を与える異人になっていたのではないかと思わないでもない。それだけの魔力を彼らは持っているのである。

「最後の障害者」とふるさとの祭りへ