58年前に「ノーベル平和賞」候補に挙がっていた…日本で「最も著名な人」を知っていますか

写真拡大 (全7枚)

10月11日、ノーベル平和賞に日本被団協(日本原水爆被害者団体協議会)が選ばれました。ノーベル平和賞の受賞は、1974(昭和49)年の佐藤栄作首相以来50年ぶりです。

実は、佐藤栄作首相の平和賞受賞より前、1966(昭和41)年にノーベル平和賞の候補に挙がっていた日本で最も著名な人物を皆さんはご存じでしょうか。

それは、日本人ノーベル賞第一号・湯川秀樹博士なのです。湯川博士もまた、今回の日本被団協と同じく核兵器廃絶に心を尽くした一人でした。

ノーベル賞は「偉人のための賞」と思われていた

1901(明治34)年に創設されたノーベル賞ですが、戦前には日本人受賞者は誰もいませんでした。そのため「湯川秀樹の受賞までノーベル賞のことを日本人はあまり知らなかった」という言説も見られますが、そんなことはありません。

偉人とたたえられた野口英世を評するときに、ノーベル賞候補者であるという表現が当時からたびたび使われていました(ノーベル委員会は選考過程を発表後50年間公表しませんが、野口は1914年、1915年、1920年と大正時代に3度候補になったことが、現在は明らかになっています)。

今から100年前、1924(大正13)年に発刊された『実業界・発明界 欧米大人物立志伝』(北畠利男著・大日本雄弁会講談社刊)を見てみましょう。自動車王ヘンリー・フォード、電話の発明者A・G・ベル、石油王J・D・ロックフェラーらと並んで、「爆発薬王 アルフレッド・ノーベル」の伝記が記載されています。

「貧しい機械技師が刻苦して火薬を発明し遂にはノーベル賞與金(よきん)を創設した」というタイトルがついており、文中でノーベル賞創設の経緯も詳細に述べられています。

また1934(昭和9)年刊の『偉人 野口英世』(池田宣政著 大日本雄弁会講談社刊)には、こんな表現もあります。

〈ノーベル賞は世界的に最も名誉ある最高賞の一つで、今までも特にすぐれた大人物又は大科学者大文豪でなければその賞金を受けることは出来なかった。だからただその賞の候補者に選ばれただけでも非常な名誉であったのだ。野口博士はその候補者となるだろうと多くの人々から予想されていた〉

『偉人 野口英世』の同年に発刊された雑誌『キング』新年号附録「新語新知識辞典」にも「ノーベル賞」の項目があり、その解説文は〈日本には、まだ一人も受賞者はありません。〉と結ばれています。ノーベル賞は、近代社会に踏み出した日本にとって“夢のまた夢”であり、“偉人”が受けるにふさわしい栄誉だったのです。

そんなノーベル賞をついに日本人が受賞したのは1949(昭和24)年。まだ日本の占領が終わっていない時でした。

湯川博士の受賞を推したオッペンハイマー

太平洋戦争で日本をたたきのめした米国の力の象徴が「原爆」です。広島と長崎に投下された直後に“新型爆弾”と報じられた原爆は、通常兵器とはまったく違う、原子核の核分裂反応によって巨大なエネルギーを引き出しています。

その原子核の成り立ちとふるまいの解明に迫る「中間子」の理論を打ち立てた湯川秀樹博士が、ノーベル物理学賞を受賞。湯川博士の受賞にあたっては、マンハッタン計画を主導した“原爆の父”オッペンハイマーが湯川博士を推したことも現在では明らかになっています。

核物理学という「科学」の力が、世界の有り様さえも変えてしまうことを実感した日本国民にとって、同じ日本人が原子核の研究で世界にひけをとらない業績を上げたことは、大いなる誇りとなりました。

湯川博士以来、2024年10月現在までに28人と一団体(文学賞のカズオ・イシグロ氏は未成年時に渡英しているので含めていません)の日本人がノーベル賞を受賞していますが、野依良治氏(2001年化学賞)、小柴昌俊氏(2002年物理学賞)、南部陽一郎氏(2008年物理学賞)の3人が「子供時代、湯川博士のノーベル賞受賞に感銘を受けて」学究の道に進んだと答えています。

子供心に刻まれた、という記憶としては湯川博士以外の名は出てきませんので(もちろん数多の研究者の中には別のノーベル賞受賞者に感銘を受けた人もいるでしょうが)、それだけ湯川博士のノーベル賞は日本国内でのインパクトが強かったといえるでしょう。

「週刊少年マガジン」の創刊号に湯川博士の祝辞が

現在の講談社を代表する雑誌「週刊少年マガジン」は1959(昭和34)年に創刊されましたが、その創刊号には湯川博士の祝辞が掲載されています。

〈おとなも少年諸君も、一週間が生活の一つの周期であることにかわりはない。おとなが週刊誌を読んでいるのを見たら、諸君も、自分たちの週刊誌をほしくなるであろう。こんど創刊される、この週刊誌が、そういう期待にそうものであってほしい。(京都大学教授・理学博士・湯川秀樹)〉

戦前の日本人の頭の中で「偉人が取るもの」だったノーベル賞を受賞した湯川秀樹博士は、その栄誉にふさわしい人格者でもありました。

湯川秀樹博士は、京都帝大の地質学者だった小川琢治教授を父に持ち、兄弟は小川芳樹(長兄・冶金学者)、貝塚茂樹(次兄・歴史学者)、小川環樹(四弟・文学者)と、そろって著名な学者となっています(末弟・滋樹は太平洋戦争で戦死)。

祖父は幕末、紀州田辺藩の儒学者で、幼少期の秀樹は祖父から四書五経の手ほどきを受け、中学時代に老荘思想に傾倒していた時期もありました。そんな背景を持つだけに、湯川博士は非常な名文家でもあって、数多くの著作を残し、当代の知識人たちと数々の対談を行っています。

素顔はロマンチストの歌人だった

輝かしい経歴を持つ湯川博士のもうひとつの意外な顔は、「歌人」です。

講談社がお世話になったのは『週刊少年マガジン』だけではありません。湯川博士は多数の書籍を世に送り出しましたが、講談社からは、『創造への飛躍』『この地球に生れあわせて』『目にみえないもの』『物理講義』『半日閑談集』『科学と人間のゆくえ』などが発刊されました。

そのなかで異彩を放つのが『湯川秀樹歌文集』(講談社文芸文庫)です。

同書に収録された随筆「古典と私」で湯川博士はこう綴ります。

〈近ごろはやりの言葉で、ドライとかウェットとかいっているが、そういう言葉を使えば、私は元来ウェットなほうであるらしい。というのは小さい頃から、日本の古典の中では山家集、近松の浄瑠璃とか、伊勢物語、お伽草子のような、センチメンタルな要素とロマンチックな要素がまじったものが好きであった〉

高校から大学へと進む中で物理学者への道を歩んでいても、研究の合間には和歌を作り続けました。京都在住の歌人・吉井勇らが刊行した歌誌「乗合船」の同人でもあったのです。

そして、『湯川秀樹歌文集』には、「原子雲」と題した歌が3首掲載されています。

天地のわかれし時に成りしとふ原子ふたたび砕けちる今

今よりは世界ひとつにとことはに平和を守るほかに道なし

この星に人絶えはてし後の世の永夜清宵何の所為ぞや

アインシュタインと手をたずさえて

〈一九四五年に原爆というものが出現した。原子物理学、あるいは原子核物理というものが進んでいく過程で、つくれるという可能性が発見され、実際それがアメリカでつくり出されたわけです。こういうものを科学が生み出した。こういうものは明らかに絶対悪です〉(『この地球に生れあわせて』より)

1955(昭和30)年7月9日、アインシュタインらが提唱した米ソの水爆実験と核兵器廃絶を訴えるラッセル・アインシュタイン宣言に湯川博士は賛同の署名をします。この後も湯川博士は、核兵器廃絶運動に深く関わっていくのです。

広島平和記念公園の一角には、1966(昭和41)年5月に建立された湯川博士の歌碑があります。

まがつびよふたたびここにくるなかれ平和をいのる人のみぞここは

〈今日も依然として人間の運命、人類の運命は測り知れない。しかしそうであればこそ、私たち人間の、人間のための努力が一層、有意義となる。それにこそ成敗を超えた生きがいがあると思うほかないのである〉(『湯川秀樹歌文集』より)

被団協のノーベル平和賞受賞を聞いて、天上の湯川博士はいまどんな歌を詠んでいるでしょうか。

【さらに読む】『おふくろの味「肉じゃが」は昭和40年代の食卓にはなかった…!多くの人が誤解している「定番料理」の意外なルーツ』

おふくろの味「肉じゃが」は昭和40年代の食卓にはなかった…!多くの人が誤解している「定番料理」の意外なルーツ