「最後の障害者」とふるさとの祭りへ

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兵庫青い芝の会長を長らく務めた澤田隆司は、あらゆる動作に介護者を必要とする重度障害者。発話できないために文字盤を使用した。澤田の生まれ故郷の姫路市では、毎年秋に灘のけんか祭りが開催される。取材が終わりに近づいたころ、私は澤田を祭りに誘った。人だかりにひるむことなく、澤田が発した言葉とは?

ちなみに澤田の「ホー」という声は「YES」の意味である。

本記事は『カニは横に歩く 自立障害者たちの半世紀』(角岡伸彦著・講談社刊)の一部を抜粋・再構成したものです。

『カニは横に歩く』第7回

第6回「どんな社会を築くのか――介護保障をめぐる議論」より続く

祭りの誘いを「忘れてた」

10月半ばだというのに、汗ばむほどの暑さだった。祭りにはうってつけの快晴である。

私は澤田隆司とともに、2009年に兵庫県姫路市内でおこなわれた「灘のけんか祭り」に来ていた。播磨灘に面した村々の屋台が次々と宮入りする松原八幡神社は、澤田の実家から徒歩数分の距離にある。

灘地区の老若男女がそうであるように、澤田にとってこの祭りは、子供の頃から1年のうちの最大の楽しみであった。澤田は神戸で自立して以降も、祭りの日には帰省していたが、ここ数年はそれが果たせずにいた。それでも神戸の自宅の部屋には、豪華絢爛な屋台が大写しとなったカレンダーが目立つところに飾ってあり、神戸在住が故郷で過ごした年数を上回っても、澤田が“灘の男”であることを証明していた。

私は地方紙の記者をしていた時にこの祭りを取材したことがあり、いつかまた訪れてみたいと思っていた。

「澤田さん、今度のけんか祭り、一緒に行かへん?」

2009年の春頃に澤田に声をかけると「ホー」と乗ってきた。私は早々と10月14日、15日の2日間を空け、澤田に会うたびに祭りが楽しみであることを話していた。

にもかかわらず――。祭りの1週間ほど前に確認の電話をすると「忘れてた」と言うではないか。ヘルパーの説明によると、「介護がかっちり固まってしまってるんで、調整が難しい」と言う。介護が契約制になり、システム化すると融通がきかなくなるのが難点である。

「昔の介護者のことは、どうでもええねんな!」

私が嫌味を言うと、灘の男から「15日、日帰りやったらいい」という妥協案が返ってきた。私たちは2日目の本宮の日に、現地で落ち合うことにした。

読み上げさせた文字盤の言葉

祭りの当日。澤田の実家で寿司をよばれた後、昼過ぎにキンモクセイの香りが漂う神社へ向かった。

神社前は屋台の宮入りの最中で、数千人の観衆であふれていた。車イスの高さでは、人の背中しか見えない。澤田がヘルパーに文字盤を読ませている。

「〈あ〉から〈な〉?

〈は〉から〈わ〉?

……〈ま〉行?」

まず行を指定し、さらに一字を特定していく。数分が経つ。

「〈ま〉……〈え〉。前へ行けってことですか!?」

「ホー!」

人をかき分けかき分け、屋台が通る道まで近づく。

竹竿を持った練り子が走り抜ける。砂埃が舞い、歓声が沸き起こる。

間近で見る屋台は、精巧な細工や刺繍が強烈な陽光を受け、光り輝いていた。屋台四隅の極太の房が、大きく左右上下に揺れる。その美しさに圧倒されながら、私は澤田の言葉に、久々に動かされていた。

前へ!

――どんなに人でごったがえそうが、迷惑がられようが、前へ前へと進もうとする澤田がいた。

「危ないですよ!屋台から離れてください!屋台から離れてください!!」

楼門の上から、警官がハンドマイクを持って叫んでいる。

最後の屋台が楼門をくぐる。私達も押し合いへし合いしながらそれに続く。これから境内で屋台同士が練り合うのだ。

「こんなとこおったら、殺されるよ!」

羽織袴にハチマキを絞めた祭典役員の声が飛ぶ。前夜、練り子一人が圧死しているので、主催者側は神経質になっていた。

屋台同士の練り合わせが始まった。二つの屋台は、近づいたかと思うと離れ、また近づく。太鼓の音、練り子の掛け声が、間断なく続く。ふんどし姿の屈強な練り子が額に汗し、顔をしかめながら屋台の重さに耐えている。その力業に、観客が拍手をおくる。

そばにいた澤田が、おもむろに私の顔を見上げた。

〈凄いやろ〉

歯のない笑顔がそう語っていた。

屋台が楼門を出た後、三基の神輿が神社から担ぎ出され、数キロ離れた御旅山(おたびやま)に向かう。数時間後に、山のふもとの練り場で、神輿同士がぶつかり合うのだ。祭りのクライマックス、神輿合わせである。

生きるために他人の手を煩わせる

昼食時には、人が多いから行かないと言っていた澤田が、突然行くと言い出した。

小高い御旅山のふもとの練り場は、すり鉢状になっていて、周囲を鉄骨で組んだ観客席が取り囲んでいる。観客は1万人を超えるだろうか。まるでスペインの闘牛場のようである。

練り場に近づこうとするが人、人、人で一歩も進めない。それでも前へ――。どうにかこうにか、見学できそうな場所を見つける。付近には機動隊員が、隙間がないほど配置されていた。

陽が傾きかけた夕刻。練り場で神輿合わせが始まった。

一台の神輿がせり上がり、別の神輿に乗りかかる。鈍い音がした後、神輿が屋根から地面に落ちる。地響きとともに、観客の歓声が、すり鉢状の練り場に響き渡る。まさに、けんか祭りであった。

青い芝の取材を長く続けてきた私は、その激しい神輿合わせが、障害者と健全者の、あるいはまた、障害者同士のぶつかり合いと重なって見えてくるのだった。

ぶつかり合うことを恐れるな――。その意味から、闘争に「ふれあい」とルビを振ったのは、若くして物故した全国青い芝の会長の横塚晃一であった。その横塚らの活動を活写した映画『さようならCP』は、関西の地に青い芝の運動と、澤田も出演した『カニは横に歩く』をもたらした。

その後、映画に出演した、あるいはそれに続くカニたちは、ある者は早世し、ある者は運動から去った。運動を推し進めた組織は衰退し、今は休眠状態である。しかしカニたちは、それぞれの持ち場で、時には周囲を煙に巻きながら、闘いとふれあいを繰り返している。

「姫路でおろして」

介護者が少なかった長い期間、澤田はマジックでそう書かれた張り紙をビニールテープで背中にくっつけ、一人で電車に乗っていた。電車に乗せるまでの介護者はいるが、車中はいない。下車する際には張り紙を見た乗客に降ろしてもらい、別の介護者がホームで待ち受ける。兵庫青い芝のメンバーはそれを「キャッチボール」と呼んでいた。

生きるためには、どんな手段を使ってでも他人の手を煩わす。澤田はそれを体現した、最後の障害者の一人であった。

「澤田さん、今度生まれる時もやっぱり障害者がええんか?」

私は取材した短くない期間に、何度かその質問をぶつけてみたい衝動にかられた。しかし敢えてそれをしなかったのは、澤田が「ホー」と言うに違いないと思うからであった。

第8回「青い芝の魔力を追って」に続く

青い芝の魔力を追って