母親は「息子の恋愛」に「呪い」をかける…?「親子」と「恋愛」をめぐる「ゾッとする事実」

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こういう人、いる!

みなさんこんにちは、ウェブ媒体の編集をしているMといいます。34歳の男性です。

ふだんは小説や文芸のジャンルとは離れたところで仕事をしていますが、ここではそんな「傍流編集者」の立場から、「文学のちょい読み」をしていきます。

今回読むのは、前回の記事(「社内恋愛には、なぜ「ちょっと冷めた感じ」がつきまとうのか? その意外なメカニズム」)につづいて、高瀬隼子さんの短編集『新しい恋愛』。

高瀬さんは『おいしいごはんが食べられますように』(2022年)で芥川賞を受賞した気鋭の作家です。

『新しい恋愛』は、ポップでかわいい装丁とは裏腹に、「恋愛」や「好意」についてじりじりと再考を迫ってくるような、どこか不穏で迫力のある、しかしきわめておもしろい作品です。

ところで本作の特徴の一つとして、「脇役の描写が異様に緻密である」という点が挙げられます。主人公はもちろん、それ以外の登場人物の描写が細部に至るまで濃密で、「たしかにこんな人、いる!」と思わされるのです。

たとえば、「お返し」という短編。

この物語のあらすじは、主人公(視点人物)の「おれ」が、小学校四年生から高校三年生になるまで、ひとつ歳下の幼馴染み的な存在である「ユウハ」という女の子から断続的に、バレンタインデーのチョコレートをもらいつづけるというシンプルなものです。

(以下、作品の中身にふれているところがありますので、ちょっとでもネタバレされるのが嫌という方は、「お返し」を読んだあとにぜひ残りをお読みくださいませ)

やがて「おれ」が大学生になって、ユウハと大きく物理的な距離ができると、ユウハはチョコレートをくれなくなります。そして社会人になった「おれ」はある日、同僚の女性(のちの妻)に向かってユウハの思い出を語ります。ユウハがチョコレートをくれてつづけていた意図はいったいなんだったのだろうか……。

ここで、同僚の女性は、「ある解釈」を口にします。それは人によってはちょっと背筋が寒くなるかもしれない解釈で、私は、どこか不穏な、しかし奇妙に印象に残る読後感を抱いたのでした。

妙にリアルな母親

さて、本短編には、「おれ」の母親がしばしば顔を出します。この母親の造形が、脇役とは思えないほど細やかで、リアリティにあふれていて、じつに素晴らしい。

そもそもユウハと「おれ」は「母親同士に付き合いがある近所の子」という関係で、ユウハが初めてチョコレートを「おれ」の家にもってきたときにも、母親がその場に居合わせます。そのときの描写が「いかにも母親」という感じでとてもいいのです。本書より引用します。

〈夕方、玄関の呼び鈴が鳴って、階段の下から母親がおれの名前を呼んだ。

「ちょっとちょっと、早く来て」

母親のその声が、パート先の集まりで酒を飲んで帰って来た時の、たがが外れたように愉快な調子と似ていたので、おれは二階の自分の部屋を出る時から、すでにちょっと嫌な気持ちだった〉

〈さっき聞いた母親の声、あれば、楽しそうな声というより浮ついた、軽薄な声なのだな、と思い直す〉

母親が息子の恋愛(もどき)に対して好奇の目を向け、軽薄に興奮している姿が目に浮かぶようだと思いませんか?

と同時に、息子がこういうタイミングで母親にたいして抱くなんとなく嫌な感じ……つまり、ふだんは「母親」という役割の服を着ている母親が、急にその服を脱いで、生々しい「女子」めいた雰囲気を出してくることへの嫌悪感も、とてもうまく表現されています。

母親からの呪い

この描写を読みながら私が抱いた感想は、こうした母親の「息子の恋愛」にたいする軽薄な態度は、けっこう息子にとっては「呪い」になるかもしれないな……ということです。母親のウザいおせっかいや好奇の目のせいで、もしかすると好きになりえたかもしれない異性、もしかすると関係を深められたかもしれない異性を、なんとなく避けてしまう。みなさんそんな経験、ありませんか?

本短編「お返し」にはほかにも、親の発言が影響して、「おれ」にとってユウハという存在がなんとなくうとましいものに感じられる……と解釈しうる場面がいくつか出てきます。解釈は人それぞれですが、「親の目」という「他者の視線」が、私の純粋な思いを汚染しうるということが、本短編の重要な示唆なのではないかと思える記述が散見されるのです。

さらに、です。さらに本短編がおそろしいのは、母親が「おれ」に向けていた好奇の視線を、「おれ」もまた自分の子供に向けてしまうかもしれないという可能性を、物語の冒頭で示唆している(ように読める)点です。

じつはこの短編、父親になった「おれ」が、5歳の息子を保育園に迎えにいくシーンから始まります。「おれ」はそこで、息子が女の子からバレンタインデーのチョコレートをもらう現場に立ち会う。そして、「うれしいか?」と息子に尋ねてしまうのです(それをきかっけにユウハについての懐旧が始まります)。

「おれ」もまた、母親と同じように、子供の恋愛(もどき)に好奇の目を差し向けてしまいうる……と解釈できるこの記述の意味が、本短編を読み終わったあとに浮かび上がってきて、私はゾッとさせられました(母-息子関係だけでなく、父-息子関係、母-娘関係、父-娘関係でも似たようなことが起きる可能性が示唆されている点もいいなと思いました)。

しかしそもそも、親の視線による「純粋な恋愛の汚染」は、なにがしかの努力によって排除できるものなのでしょうか。この短編の構成には、「そもそもそれは排除できない」というあきらめにも似た姿勢が読み取れるような雰囲気もあり、思わず「純粋な恋愛なんてものは可能なのか」と考え込んでしまうのでした。

本短編、そして、この短編集全体をゆるく通底しているのは、「だれかを好きになるときに、なにか不純なものが入り込んでくる感覚」であるように見えます。ポップでかわいい装丁にちょっぴり油断して読み始めると、どこか不穏で、不安で、落ち着かない気持ちになる……それは、この本が、自分のなかにある「不純」を突きつけてくるからかもしれません。

【さらに読む】「最も高いことないな、恋愛が自分の人生で。芥川賞受賞作『おいしいごはんが食べられますように』の著者が綴る、恋愛に関する率直な気持ち」の記事では、本作の著者・高瀬隼子さんの恋愛観が明かされます。

最も高いことないな、恋愛が自分の人生で。芥川賞受賞作『おいしいごはんが食べられますように』の著者が綴る、恋愛に関する率直な気持ち