ヒトラーは、じつは「純愛」と「出産」を奨励していた……その驚くべき実態

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堕落も偽善も批判するヒトラー

現代社会を考えるうえで、「最大の反面教師」はなにか--そう問われて、20世紀半ばにドイツで権力を握った「ナチ党」、そしてその思想である「ナチズム」を挙げる人は多いのではないでしょうか。

それでは、ナチズムはどのような思想で、そこではどのような政策が遂行されたのでしょうか。

甲南大学教授の田野大輔さんによる『愛と欲望のナチズム』(講談社学術文庫)は、「性愛」や「性欲」といった、やや意外な角度からナチズムの思想や政策を浮き彫りにしてくれる、非常に興味深い一冊です。

ナチズムは「市民道徳」を重視して性愛に抑圧的な態度をとったと考えられてきましたが、同書が指摘しているのは、ナチズムが実は性欲や性愛を解放するような側面をもっていたという事実です。

たとえば同書には、こんな記述があります(読みやすさのため、一部、編集しています)。

〈アドルフ・ヒトラーは、その自伝的著作『わが闘争』のなかで、ドイツを脅かす「民族の政治的・風俗的・道徳的汚辱」を非難すると同時に、空疎な道徳を説く「ある種の階層の偽善的上品ぶり」を攻撃している。いわく、「社会生活はわれわれの現代的なエロティシズムのむせるような香水からも、男らしくない上品ぶった不誠実さからも解放されなければならない」。

彼はこうしてある種の二正面作戦を展開するのだが、それは性規範の乱れであれ、口先だけの道徳であれ、民族の堕落に手を貸す無責任な態度のあらわれという点では同罪だ、と考えるからにほかならない。『わが闘争』の著者がもとめるのは、断固たる決意をもって人口・人種政策的措置を講じること、とりわけ早期の結婚を奨励し、若い夫婦に健康な子供を産ませることである。

というのは、「結婚もまた自己目的ではありえず、種と人種の増加と維持というより大きな目標に奉仕しなければならない。それのみが結婚の意味であり、課題である」と考えるからである。そして、この問題の重要性を全国民に理解させるためには、「きわめて大がかりな啓蒙」が必要であると彼はいう。

ヒトラーの要求が、「産めよ殖やせよ」の出生奨励策と結びついていたことはたしかだが、そこに純粋な愛にもとづく結婚の倫理を説く、彼なりに真剣な主張が含まれていたことを見逃すわけにはいかない。彼によれば、愛を欠いた金めあての結婚は、街頭で身を売る娼婦と同じ不道徳を犯すことを意味する。

上流階級の親たちが、ご立派なお題目を唱えながら、自分の娘を金持ちの男に嫁がせたがるのは、「愛の売春化」、「精神生活のユダヤ化」、「結合本能の拝金主義化」をあらわすものにほかならない。「何しろ、経済的合理性がますますわれわれの結婚の基礎となり、唯一の前提となるからである。しかし、愛はどこかほかのところで憂さ晴らしをするのだ」。〉

〈第三帝国期の啓蒙書『愛について』の著者ハンス・フォン・ハッティングベルクは、ヒトラーの主張を代弁するかのように、こう主張している。

こうしたあずま屋の二重道徳は、私の世代を……「自由恋愛」とその純粋さの前衛にした。愛それじたいは純粋だった。その理想主義的な恍惚においてばかりでなく、性的な結合において、その最も神聖な神秘、「愛の崇高な祝祭」においてはなおさらそうであった。「汚れのない」受胎というキリスト教の教えこそが、(ニーチェの言葉によれば)受胎を汚したのである。自由な愛ではなく、法的に拘束された愛、本当の愛を欠いた義務としての性交は非道徳的であった。名前と生計を得るためだけに、愛してもいない夫に身を捧げる女性は、より低い金額と安全性のもとで同じことをする貧しい娼婦と、本当にそれほど違っていたのだろうか。

金めあての結婚に反対し、偽善を排した純粋な愛を要求するハッティングベルクは、「愛の崇高な祝祭」としての性交までも賛美するわけだが、ここには何よりも、既成道徳のもとで抑圧されてきた性愛の喜びに正当な権利を与えようという、ある種の積極的な意図が認められる〉

ナチズムと「純愛」。意外な組み合わせからは、ナチスがもっていた危うさの知られざる一面が垣間見えるかもしれません。

【つづき】「ナチズムは、じつは「性愛の喜び」を重視していた…その「意外な実態」」でも、ナチズムの意外な側面について解説しています。

ナチズムは、じつは「性愛の喜び」を重視していた…その「意外な実態」