あの坂本龍馬を捕殺!?約400名で組織された幕末の治安維持部隊「京都見廻組」の実態【後編】

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幕末の京都における治安維持を担った「京都見廻組(きょうとみまわりぐみ)」。江戸幕府存続のために活動した見廻組だが、幕末から明治維新という時代の流れに呑まれて崩壊してゆく。

今回は【前編】に続き、京都見廻組の実情と最後をご紹介する。

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坂本龍馬の捕殺

土佐脱藩浪士である坂本龍馬暗殺(近江屋事件)を巡っては様々な解釈がなされているが、京都見廻組による捕殺説がいわれている。

見廻組として京都の治安維持に尽力した今井信郎は、戊辰戦争後に身柄を拘束され、坂本龍馬殺害に関する詳細を証言している。

今井によれば、今井自身と佐々木只三郎を含む7名が近江屋へ向かい、実行犯は佐々木を筆頭に4名であったという。坂本と同席していた中岡慎太郎も殺害された。

坂本の殺害動機は1866年に起きた寺田屋事件が原因であるという。薩摩藩士を騙る坂本を伏見奉行数十人が捕縛に向かったこの事件で、坂本は捕り方2名を殺害し数名を負傷させ逃走しており、この事が後の近江屋事件の動機であった。

今井は京都見廻組による坂本暗殺は正式な公務執行であり、暗殺ではなく捕殺であると主張している。

京都見廻組の「今井信郎(いまいのぶお)」

組織の崩壊

京都の治安維持に尽力した京都見廻組であったが、王政復古の大号令による徳川慶喜(とくがわよしのぶ)の将軍辞任、江戸幕府の廃止による幕藩体制の終焉に伴って崩壊を余儀なくされる。

徳川15代将軍「徳川慶喜(とくがわよしのぶ)」

1868年から起こった新政府軍と旧幕府軍の戦いである戊辰戦争では、旧幕府軍として参戦。鳥羽伏見の戦いにおける敗戦によって大阪へ敗走する。

徳川15代将軍就任以降、畿内を離れなかった徳川慶喜の大阪城脱出と共に江戸へ帰還。後に狙撃隊と隊名を改めるも、1868年6月に解体となった。

隊士たちのその後

京都見廻組の中心人物であった佐々木只三郎は、旧幕府軍として参戦した鳥羽伏見の戦いにおいて被弾し、重傷を負って戦線を離れる。敗走中の和歌山の地で没した。享年36。

今井信郎は鳥羽伏見の戦いの後、旧幕府軍の歩兵を集めて新たに結成された組織である衝鋒隊(しょうほうたい)の副隊長に就任。函館まで転戦し降伏した。

その後は、身柄を拘束されるも1872年に釈放。西郷隆盛との人脈を通じ、新政府に一矢報いようと鹿児島へ向かうも、西郷の戦死を受けて頓挫する。

晩年は武士を引退。キリスト教に帰依し静岡県の初倉村の村長として尽力した。

1918年死去。享年78。今井が生前に語った坂本龍馬殺害(近江屋事件)の真相は、現在最も信憑性の高い定説となっている。