人の心は単純ではない。

たとえ友情や恋愛感情によって結ばれている相手でも、時に意見は食い違い、衝突が起きる。

軋轢や確執のなかで、感情は歪められ、別の形を成していく――。

これは、複雑怪奇な人間心理が生み出した、ミステリアスな物語。

▶前回:彼の誕生日に贈ったプレゼントが喧嘩の引き金に…。デート中、急に雰囲気が悪くなったワケ




時間の軸【前編】


「ねえ、ママ。どっちの服がいいと思う?」

遥香は、キッチンでお菓子を作っている母親の真澄に、今日のデートに相応しい服を尋ねる。

「ええ?う〜ん、ママはこっちかなぁ…」

真澄は、グレーのフレアワンピースを指さした。

「っていうか、遥香。あなた、待ち合わせの時間、もう過ぎてるんじゃないの?」

真澄が心配そうに時計を見上げる。

普段の遥香は、大手金融機関で広報として働いているが、今日は土曜日。

仕事が休みということもあり、15時に彼氏の拓司と待ち合わせていた。

だが、すでに16時前。1時間近くも過ぎている。

「うん、もう行く」

「大丈夫なの?」

「うん、拓司は優しいから」

遥香は焦る様子もなく答える。

歯科医師の父親に、次女として甘やかされて育った遥香。

至ってワガママで、プライベートとなると時間にルーズだ。相手を待たせることへの罪悪感も薄い。

― 拓司は、私の遅刻を気にしない性格だもん。

拓司は会社経営者を父に持つ、裕福な家庭の次男。遥香と同じような家で育っている。

穏やかでのんびり屋。ワガママを受け入れてくれる優しさを持ち合わせ、27歳で同年齢。友人から紹介を受けたときはすぐに波長が合うと感じた。

背の高い痩せ型の体型が、好みにも合う。まさにパートナーに相応しい相手だと遥香は思っている。

「よし。そろそろ行こ」

遥香が着替えを済ませ出かけようとすると、愛犬のトイプードルが近付いてきて足もとをうろつく。

小学6年生のころから飼い始めたシニア犬で、名前をメープルといった。

「あ、そうだ!昨日、メープルのためにおやつを買ってきてたんだ。ちょっと待ってね…」

また、さらに時間が経過していく…。


遥香は、自宅の最寄り駅である浜松町駅近くのカフェへと向かう。

拓司との待ち合わせは、大抵ここだ。時間にルーズな遥香の事情を考慮してのことである。

しかし結局、遥香は待ち合わせ場所を寄せてもらったところで、毎回1時間は遅刻する。

今日は、約束の時刻から1時間半遅れての到着となった。

遥香が入り口のガラス扉を開けると、奥の席に拓司の姿が見える。

「ごめ〜ん、拓司。遅くなっちゃった〜」

付き合って1年ほど経ち、すでに挨拶と化したお馴染みの言葉で呼びかける。

拓司は顔を上げると、遅刻を咎める様子もなく、ニコッと微笑んだ。

「あれ?今日はメガネなんだ」

普段はかけていない黒縁のメガネに、遥香は気づいた。

「あ、うん。ちょっと視力が落ちたみたいでさ。今日は車の運転もあるし、念のためかけてきたんだ」

遥香は椅子に腰かけると、テーブルの上に伏せて置かれた文庫本に気づいた。

「また何か読んでたの?」

最近、待ち合わせの際に、拓司が読書をしている姿をよく見かけるようになった。

拓司は以前まで「活字が苦手」と言っていただけに、大きな変化である。

「そう。今日はこれ。司馬遼太郎を読んでた」




「ふ〜ん。聞いたことあるかも。ジャンルは?」

「歴史小説だね」

「歴史?なんか難しそう…」

「最初は取っつきにくいところがあるけど、読み進めていくうちにどんどん面白くなってきたよ」

拓司が読書を始めた2ヶ月ほど前は、芸能人のエッセイなどを読んでいた。

それが、ミステリー小説へと移行し、現在読んでいるのは歴史小説。

― 徐々に難易度がアップしてる…。

「そういえば、なんで本を読むようになったんだっけ?」

「ああ。読書好きの友だちに勧められたんだよ。学生時代から付き合いのある奴でさ」

「ふ〜ん。そうなんだぁ」

「彼女と待ち合わせをしているあいだ、ただボーッと過ごしてるって伝えたら、『時間がもったいない』って言われてさ。『だったら本でも読みなよ』って、まずは初心者向きのものから貸してくれたんだ」

拓司はにこやかに事情を伝えた。

…が、慌てて遥香のほうに向けて手を振り、「違う違う!」と何かを否定し始めた。

「別に、遥香を責めてるわけじゃないんだ。待つのは全然苦じゃないからさ」

遥香の時間のルーズさを非難しているわけではないと、フォローしているようだった。

― やっぱり拓司は優しいな…。

遥香は改めて、拓司が恋人であることに喜びを感じた。

カフェを出て2時間ほどドライブした後、予約していたフレンチレストランで食事をとった。

汐留にある拓司のマンションに戻って来たのは、21時を回った頃。

拓司の勤める広告代理店が近く、遥香の自宅からもそう離れていないことから、今年引っ越してきたデザイナーズマンションだった。




「ごめん。今日ちょっと部屋が散らかってるかも」

拓司がそう断りを入れるのは珍しいことだった。

ミニマリストとは言わないまでも、部屋にあるのは必要最低限の家具や家電のみで、無駄なものはほとんど置かない主義だったからだ。

「そんなこと言って。いつも綺麗にしてるじゃん」

遥香が気にも留めずリビングに入ると、テーブルやフローリングの上に、かなりの量の本が積まれていた。


ざっと見て、ハードカバーやソフトカバーのもの、合わせて30冊ほどの本が積まれていた。

「これ、全部拓司が読んだやつ?結構あるね…」




おそらくここ2ヶ月ほどのあいだに読んだものであり、遥香はその冊数に驚く。

「そうなんだよ。いつの間にか増えちゃって。まあ、借りてるやつもあるんだけど」

「電子書籍にしたらいいのに…」

「そう思うんだけどさ、友だちが貸してくれるのが本だったから。電子書籍だと物足りなく感じちゃって」

拓司が本をすべて部屋の隅に退けて、テーブルの上を片付ける。

遥香はソファに腰を下ろすと、ほかの話題を探した。

「ねえ、今度どこ出かけようか?拓司は行きたいところとかないの?」

「う〜ん…。あっ!俺、ひとつだけあるんだ」

「えっ!どこどこ!?」

拓司がデートの行き先を提案する機会は少なく、興味を引かれた。

「さっき読んでた本あるじゃん。その関連で、『新選組展』を観に行きたいんだよね」

「しんせんぐみてん…?」

展覧会や美術展などの類は今まで候補に挙がったことがなかったので、遥香は少し戸惑う。

「でも、遥香が興味ないなら大丈夫。ひとりで行けばいいからさ」

「ううん。行く行く。たまにはそういうところもいいよね」

遥香は興味のある素振りを見せた。拓司ひとりで行かせてはいけない気がしたからだ。

「そっか。良かった。確か3週間後くらいから始まるんじゃないかったかな…」

拓司はそう言いながらメガネを外し、目をしばたかせる。

「どうしたの?目にゴミでも入った?」

「ちょっと目が疲れてて…」

「それって、本の読みすぎじゃない?ほら、視力も落ちたって言ってたし」

「あ、そうかも…」

「でしょ?少しのあいだ、本を読むのやめたら?目を休ませたほうがいいよ」

「そうだね。視力が落ちたら元も子もないし。今のを読み終わったら、しばらくやめるよ。心配してくれてありがとう」

このまま読書を続けられると、拓司とのあいだに距離ができてしまうかもしれない。そんな不安を覚えていた遥香は、安心した。



3週間後。

予定していた展覧会へ出かけるため、いつものカフェで待ち合わせをした。

遥香がいつも通り1時間以上遅れての到着となり、早速席を立って目的地に向かって歩き出す。

― あれ?拓司…なんか雰囲気変わった?

前を歩く拓司の背中に、遥香はどこか違和感をおぼえた。

気候が冬の気配を帯び、肌寒くなってきたため、ジャケットが厚手のものに変わったこと以外、変化はないようにも見えるが…。




「拓司。なんか、大きくなった?幅が広くなったっていうか…」

背の高いヒョロッとした体型が、やや逞しくなったように感じたのだ。

「あ、わかる?」

拓司が振り返り、嬉しそうに答えた。

「最近、ジムに通い始めたんだよ」

「そうなんだ…」

「実は、遥香と待ち合わせる前も、ジムで1時間ぐらいトレーニングをしてたんだ」

入会したのは全国に展開しているスポーツジムで、駅付近にも施設があり、時間を潰すのにはちょうどいいとのことだった。

「ほら。前に話した友だちに、『しばらく読書はやめる』って伝えたら、『それなら体でも鍛えたら?』って言われてさ」

拓司が胸もとで握りこぶしを作り、「さ、行こう!」と歩き出す。

颯爽と前を行く拓司の背中が、遥香には少しだけ遠く感じられた。

▶前回:彼の誕生日に贈ったプレゼントが喧嘩の引き金に…。デート中、急に雰囲気が悪くなったワケ

▶1話目はこちら:彼女のパソコンで見つけた大量の写真に、男が震え上がった理由

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恋人との距離を感じ、女は遅刻癖を直そうとするのだが…