【人生で初めてのスケート】

 11月19日、大阪。スケートリンクの外はにぎやかだった。大勢の子どもたちが黄色、赤色、水色と鮮やかビブスを着込み、体を弾ませていた。

「スケートは初めてですぞ」

 小さな男の子がおどけて言った。未就学児を集めた「NHK杯スケート体験会」、ほとんどがスケート未経験者で、スケート靴も初めて履いたのだろう。おずおずと歩く姿が微笑ましい。

「自分のヘルメットや」

 活発な男の子は、自前の黒いヘルメットをまわりに誇っていた。一方で不安なのか、母親の手をぎゅっと握りしめている女の子もいた。期待と緊張が入り混じる。

 彼らは、人生で初めてのリンクに入ろうとしていた。

「(スケートが)初めてのみんなが多いと思いますが、楽しんでスケートを味わってもらえたらと思います」

 この日、ゲストに招かれた宮原知子は子どもたちに向かって、そうあいさつをしている。


10月7日、一日限りの現役復帰でジャパンオープンに出場した宮原知子 photo by Noto Sunao(a presto)

 宮原は全日本選手権を4連覇し、世界選手権準優勝、平昌五輪でも4位になったフィギュアスケート界のレジェンドのひとりと言える。2022年3月で現役を引退し、すでにプロスケーター2年目。今年10月のジャパンオープンでは、一日限りの現役復帰で観客を沸かせたが......。

 はたして、"新しい宮原"はそこにいたのか?

【"見てほしい"宮原知子の原点】

 宮原が初めてリンクに立ったのは4歳の時で、まさに目の前にいる子どもたちと同じ年頃だった。

ーー目をつむって、そこに映し出される初めてのスケートの光景を思い出してください。

 そのリクエストに、彼女はこう答えていた。

「自分のなかでは一歩目を滑れた時、その感触がよかったのは覚えています。でも初めて滑った時より、貸し靴ではなく自分の靴を履いた時にワクワクしていましたね。言葉で言い表すのは難しいんですが、小さくジャンプする、気持ちが弾む感じで。水色の衣装を着ていたと思いますけど、"自分がスケートしている!"というのがすごく楽しかったんです」

 体験会、リンクに入った子どもたちは最初、手すりに捕まって足踏みするのがやっとだった。しかし10分、20分と経過するうちに、片手を離し、両手を離し、氷の上で立つことができるようになり、両手を水平に広げ、足をハの字に、そして膝を曲げ、恐る恐るながら足踏みできるようになる。腰から落ちても体重が軽いだけに痛みは少なく、何度でもトライできる。子どもの飲み込みは早い。

「ゆっくり」

 宮原が小さな体をさらにかがめ、子どもたちと同じ視線になって、そう励ました。前に進んでいたはずが、力んで転んでしまい、慣れないスケート靴で起き上がれなくなる女の子もいたが、宮原は同じように氷に膝をついて優しく声をかけ、起き上がるコツを指南した。すると、女の子はどうにか立ち上がって、再び、氷を踏んだ。

「初めてのスケート靴は、白い靴でした。(両親に対して)『貸し靴じゃ嫌だから買って』ってせがんだらしいんですけど(笑)」

 宮原は以前のインタビューでそう明かしていた。

「あまり記憶にないんですが、一度滑ってから、すぐにほしがったみたいです。初めて氷の上に乗ってから、数カ月とかで『スケート教室も始めるからほしい!』ってせがんだみたいで。だから、自分の場合は靴を手に入れてうれしかったんだと思います。

 最初は、これだけ滑れるんだっていうのが単純にうれしくて。"できるようになったんだよ"というのを見せたくて、ずっと滑っていたのかなって思いますね。自分から進んで、『ちょっとこれできるから見て!』と伝えに行ったりはしなかったんですけど、心のなかでは"ちょっと見てくれないかな、見てくれたらうれしいな"って(笑)」

 奥ゆかしさが彼女らしい。

【過去、現在、未来を結ぶ】

 体験会で宮原は参加した子どもたちに、できる限り声をかけていた。うまくできると、胸元で小さな拍手を鳴らした。「見ているよ」。そう伝えることで、もっと見てもらおう、という向上心にもつながる。

 彼女自身、それを積み重ねて世界的なスケーターになったのだろう。

 今回のNHK杯で宮原はアンバサダーを務める。過去6度もNHK杯に出場した宮原は、2015−2016シーズンには優勝も飾っている。縁が深い大会と言えるだろう。

 生涯で会心の試合は? と聞いた時、返ってきた答えは意外だった。

「なかなかひとつにしぼれないですけど、平昌五輪後の次のシーズン、NHK杯ですね。2位だったんですけど。オリンピックの後だから気が抜けるという演技をしたくはないと挑んだシーズンだったので、そこでいい練習ができてしっかりメダルをとれたのは、自分がつかんだ勝利だなって思えます」

 彼女は常に自分と向き合うタイプのスケーターだった。克己心というのか。タイトルよりも、自分に勝ったことに幸せを感じた。

<スケートを好きになるか>

 それがひとつ目の大きな分岐点になるのだろう。

 体験会の最後、宮原は子どもたちと保護者たちに優雅なスパイラルを実演している。

 一角で、歓声が上がる。氷に座ったまま見ていたひとりの女の子は、その目を輝かせていた。小さな手で必死に拍手を送った。

「短い時間でしたが、みんなの一生懸命な姿に元気をもらいました。この体験で、次の機会もつくってもらえたらうれしいです。いつでもまた、リンクに来てください!」

 宮原はそうメッセージを伝えている。子どもたちは、氷上で新しい遊びを見つけたようにも見えた。彼女はスケートの過去、現在、そして未来を結びつけたのかーー。

 11月24日、同じリンクでNHK杯が幕を開ける。