「シノさん、しっかり伝えてよ!」監督・原辰徳の厳しさを盟友・篠塚和典が明かす
篠塚和典が語る「1980年代の巨人ベストナイン」(3)
原辰徳 後編
(中編:王貞治が引退した巨人に原辰徳がもたらしたもの 「待望の中心打者、新たな4番候補だった」>>)
篠塚和典氏が語る、1980年代巨人で最高の4番バッター・原辰徳氏。その後編では、原氏が放った印象的なホームラン、互いに巨人の指導者だった時代のエピソードなどを聞いた。
巨人、そして2009年のWBCでも原辰徳監督(右)のもとでコーチを務めた篠塚 photo by Sankei Visual
――原さんの印象的なホームランのひとつとして、1989年の近鉄との日本シリーズ第5戦で放った満塁ホームランが挙げられます。同シリーズでは近鉄のピッチャー陣に徹底的に抑えられ、その打席まで無安打。しかも目の前で、ウォーレン・クロマティさんが2打席連続となる敬遠をされて迎えた屈辱的な打席でした。
篠塚和典(以下:篠塚) 常に「彼は何かを持っているバッターだ」と思っていましたが、あの場面で満塁ホームランを打ってくれて、それを再認識しました。この場面だけではなく、長く一緒にプレーする中でそういう場面を数多く見てきました。「原の今の調子だと、打つのは厳しいかな」と思っている矢先にポンと打ったりするんです。
――例えば、どんなシーンが思い出されますか?
篠塚 神宮球場でバットを投げた時かな(1992年7月5日のヤクルト戦)。あの時も彼は状態が悪かったんです。9回表でヤクルトに2点リードされていて、前のバッターの岡崎郁がフォアボールで出塁。一打同点の場面で、原は打った瞬間に手応えがあったのか、思い切りバットを高く放り投げた。今でもよく映像が流れますが、「ほら見ろ!」という感じの表情が印象的でした。
――原さんはかなり興奮していた?
篠塚 打てない状態が続いていて悔しかったでしょうし、打てたことで気持ちが爆発したんだと思います。ただ、驚いたのは原がバットを投げたこと。もともとそんなタイプではないので、あの時は何か期するものがあったんでしょうね。
――1995年、原さんは15年にわたる現役生活を終えましたが、篠塚さんはどう思われましたか?
篠塚 引退は本人が決めることですからね。自分から見て「プレーできないことはない」と思っていましたが、そればかりは仕方ない。アキレス腱の部分断裂や左手の有鉤骨骨折など、いろいろなケガを経験して満身創痍だったでしょうし、体が限界だったんじゃないですか。それと、彼は代打というタイプではないですし、「スタメンで試合に出られなくなった時は引退」という覚悟があったんだと思います。
【原の監督としての厳しさと特長】――原さんとは、お互いに指導者になられてからの関係も長いと思いますが、指導者時代に印象に残っていることはありますか?
篠塚 原は監督時代、コーチに対して厳しかったですね。僕らコーチがサインで指示を出していても、選手がボーンヘッドをしてしまう時があるじゃないですか。なぜそうなってしまったかも説明するんですが、原は「シノさん、選手がちゃんとやってないじゃない! やってないってことは、伝えてないことと同じだ! しっかり伝えてよ!」と。そういったやりとりを、試合中にしたこともあります。
現場では監督が一番上ですし、年齢は関係ない。監督としての厳しさを常に持っていたと思います。ボーンヘッドでも選手ではなく、コーチを叱っていましたね。
――他に印象に残っているエピソードは?
篠塚 ある試合で、交代で入る選手を守備位置につかせた時です。僕らとしては監督が指示した通りのポジションに選手をつかせたつもりだったんですが、「指示したポジションと違う」となって。「指示したポジションにちゃんとつかせていけば、試合もスムーズに進むわけでしょ」と言われましたが、試合の流れを分断されることを特に嫌っていましたね。
でも......今だから言えることでもありますが、その交代に関しては、僕らが間違ったわけではなく、原が自分で指示したポジションを忘れていたと思うんです(笑)。そういう点は、けっこうミスターに似ているところもありましたね。
――原さんは監督として歴代9位の通算1291勝を挙げ、9度のリーグ優勝、3度の日本一を達成。監督として優れている部分について、篠塚さんはどう見ていましたか?
篠塚 近年は、自分はチームを外から見ていたこともあってわからない部分もありますが、コミュニケーション能力に長けていると思います。実績がある中堅やベテランの選手をスタメンから外す時などは、必ず本人を呼んで話をしていました。
自分の考えをしっかりと伝えて、本人に納得してもらおうとする努力が見えましたね。若手を外す時などはコーチに任せていたと思いますが、中堅やベテランに関しては直接話をするといった気遣いを感じました。話し合いの場を作ったりしてチームをまとめていた印象です。
――原さんは巨人だけでなく、篠塚さんもコーチを務めた2009年のWBCでも、イチローさんなど多くのスター選手を率いて日本代表を世界一に導きました。巨大戦力を束ねることに長けていた印象がありますが、いかがですか?
篠塚 それは感じましたね。先ほど話したコミュニケーション能力は、一流の選手たちをまとめるために大事な能力だと思います。特にWBCを戦う日本代表は、普段から一緒にやっている選手ばかりではないので、意識して多くの選手と会話するようにしていたと思います。
――篠塚さんは以前、中畑清さんとはグラウンド外でも食事などをする機会があったと話していましたが、原さんともそういう機会はありましたか?
篠塚 原と外で会う時はゴルフでしたね。今でも野球に関する話をすることはなく、もっぱらゴルフの話をしています。
――この連載の中で江川卓さんとのエピソードをお聞きした際は、江川さんについて「自分のバッティングを変えてくれた存在」と表現していましたが、篠塚さんにとって原さんはどんな存在ですか?
篠塚 先ほども(前編で)話しましたが、原が1年目(1981年)にセカンドのレギュラーに抜擢されたことで自分が試合に出られなくなった。結果的には、そのシーズンの5月頭にサードの中畑さんが故障したことで原がサードへ、僕がセカンドに入ることになり、その後も定着するんですけどね。
もし開幕から自分がセカンドを任されていたら、あそこまでの成績を残せていなかったかもしれない(篠塚さんは1981年、自身のシーズン最高打率となるリーグ2位の打率.357をマーク)。自分が守るはずだったセカンドにルーキーの原が入って、最初は気持ちがモヤモヤしていましたが、すぐに切り替えて「チャンスが来た時に必ずものにしよう」と準備していました。その約1カ月は、自分にとってすごく意味のある期間だったと思います。
原は、そういう成長につながる時間を作ってくれた。WBCでも巨人でも苦楽を共にして優勝も経験しましたし、自分を後押ししてくれた存在かもしれません。
(連載4:篠塚和典が語る、クロマティが「4割バッター」に迫った1989年 「大好き」と語っていた投手とは?>>)