篠塚和典が語る「1980年代の巨人ベストナイン」(3)

原辰徳 中編

(前編:ルーキー原辰徳にセカンドを奪われた篠塚和典にミスターから電話「チャンスが来るから腐るなよ」>>)

 篠塚和典氏が「1980年代の巨人ベストナイン」で4番・サードに選んだ原辰徳氏。そのエピソードを振り返る中編では、自身とはタイプが異なる原氏のバッティング、重圧のかかる巨人の4番として苦しんでいた時の姿、広島の"炎のストッパー"津田恒実投手との対戦で負った骨折とその影響などについて聞いた。


1980、90年代にかけて巨人の4番として活躍した原 photo by Sankei Visual

【3番・篠塚がつないで原が打点王に】

――お互いが現役だった時に、バッティングについて原さんと意見を交換する機会はありましたか?

篠塚和典(以下:篠塚) ほとんどなかったと思います。それぞれ"自分のバッティング"を持っていましたから。原もそうですし、レギュラー同士でバッティングの技術について話をしたことはあまりありません。

――引退後はおふたりとも巨人の指導者としても活躍し、2009年の第2回WBCでは原さんが監督、篠塚さんが打撃コーチという関係でチームを世界一に導きました。そんな指導者時代も、バッティングについて話すことはなかった?

篠塚 ありませんでしたね。自分と原ではバッターとしてのタイプが違いますし、教えるとすれば原は江藤智や二岡智宏といった右バッターが中心で、左バッターに対してはあまり指導していませんでした。やっぱり左バッターの感覚はわからないでしょうから、自分が教えたりしてうまい具合に分担していましたね。

――ちなみに1983、84年頃の巨人は、篠塚さんが3番、原さんが4番のケースが多く見られました。1983年には篠塚さんがチャンスを広げたこともあって、原さんが打点王になりましたが、やはり4番の原さんにつなぐ意識が強かったんですか?

篠塚 そうですね。というよりも、自分の場合は何番を打っても"つなぐバッティング"でしたからね(笑)。なので、一般的な3番のイメージではなく、自分の後ろを打っていた4、5、6番がクリーンナップという感じで、「自分が出塁して後ろが還してくれればいい」という気持ちでした。ただ、後ろのバッターたちの状態が悪い時には、なんとか自分で走者を還そうと考えながら打席に立っていました。

 松本匡史さんと河埜和正さんが1、2番コンビを組んでいる時は、2人とも出塁率がよくて初回からチャンスを作ってくれました。松本さんが出塁した後に盗塁を決め、河埜さんがバントで送ってくれて一死・三塁のケースになるケースも多かったですね。なので、2人の後を打つ3番はバッティングを楽しめましたし、やりやすかったです。

【「巨人の4番」のプレッシャーを背負い続けた原】

――「巨人の4番」を担っていた原さんのプレッシャーは計り知れないものがあったと思います。特にチャンスで打てなかった時の批判のされ方は、傍から見てもキツそうでした。

篠塚 厳しいポジションだし、川上哲治さんやミスター(長嶋茂雄)など偉大な先人が務めてきたこともあって、どうしても比較されてしまいます。打てなかった時はメディアにもいろいろ書かれてしまいますからね。つらい場所だったんじゃないかなと。それでも原はそれなりの成績を残しましたし、4番として十分な働きをしていたと思いますよ。

――生涯得点圏打率は.286ながら、世間からは「チャンスに弱い」と言われることもあったと思います。篠塚さんの目から見てどうでしたか?

篠塚 確かにチャンスでの弱さをよく指摘されていましたが、あまりそういう印象はないんです。スランプに入ると長いほうでしたけどね。そこからいかに脱出するかがバッターの一番難しくて悩むところで、脱出するためのコツもないですが、そういう時はもがいていましたよ。

 バッティングコーチとも積極的にコミュニケーションを取ったり、試行錯誤していた姿を覚えています。チームメイトも、原が近くでバッティング練習している時には、いい打球が飛んだ時などに「いいね、いいね!」などと言って盛り上げたりしていました。

――篠塚さんと原さんは、同じ時代に巨人の中心打者として長く活躍しましたが、「V9時代(1965年〜1973年)」と比べられるプレッシャーも大きかったんじゃないでしょうか。

篠塚 V9の時のチーム成績がとてつもなくて、すごくプレッシャーを感じていました。その時にチームをけん引した先輩たちが徐々に引退していき、1980年には王貞治さんが引退。そこで「巨人のすごさ」がちょっと途切れてしまった感じがあります。それで監督のミスターが、その後の10年、15年と巨人を背負っていく選手たちを育てるということで、厳しい伊東キャンプ(1979年)を行ないました。

 選手たちは伊東キャンプの期間中、それまでの"強い巨人"を自分たちが担っていけるか、という不安を抱えながら毎日を過ごしていました。原が入団したのは伊東キャンプがあった年の翌年(1980年ドラフト1位)でしたね。

――原さんの入団はチームにとって大きかった?

篠塚 大きかったです。伊東キャンプの翌年は、自分も含めてキャンプに参加した選手たちがそこそこ活躍できて、そのタイミングで原が入ってきた。ミスター、王さんが抜けて長打を打てる中心打者が求められていましたし、他の選手たちの精神的にも、原が入ってきてくれたことはチームにとってものすごいプラスでしたね。

――新たな4番候補として、篠塚さんも期待されていた?

篠塚 そうですね。4番として育っていってほしいなと。前後は他の打者たちが支えていく気持ちでいましたし、外国人助っ人も入ってくれれば、打線に厚みが出て強いチームが作れるんじゃないかと思っていました。

――原さんは長く4番を務めましたが、その姿をどう見ていましたか?

篠塚 どこかを故障している時などは不安も見えましたが、コンディションに問題がなくてある程度チームが勝っている時は、自信を持って4番というポジションを担っていたと思います。何年か経った後には風格のようなものも感じましたよ。

――故障といえば、原さんは1986年に、広島の津田恒実投手の真っ直ぐをファウルにした際、左手の有鉤骨(ゆうこうこつ)を骨折。あの骨折が以降のバッティングに影響を与えたとも言われていますが、篠塚さんもバッティングの変化を感じましたか?

篠塚 左手の有鉤骨は、右バッターの彼にとってバットのグリップエンドが当たる位置の骨です。なので、有鉤骨が気になるとなかなか思い切って振れません。原も復帰した後は、恐る恐るスイングしているように見えました。強く振れるようになったのは、ある程度時間が経ってからでしたね。

(後編:「シノさん、しっかり伝えてよ!」監督・原辰徳の厳しさ>>)

【プロフィール】

篠塚和典(しのづか・かずのり)

1957年7月16日、東京都豊島区生まれ、千葉県銚子市育ち。1975年のドラフト1位で巨人に入団し、3番などさまざまな打順で活躍。1984年、87年に首位打者を獲得するなど、主力選手としてチームの6度のリーグ優勝、3度の日本一に貢献した。1994年に現役を引退して以降は、巨人で1995年〜2003年、2006年〜2010年と一軍打撃コーチ、一軍守備・走塁コーチ、総合コーチを歴任。2009年WBCでは打撃コーチとして、日本代表の2連覇に貢献した。