篠塚和典が語る「1980年代の巨人ベストナイン」(3)

原辰徳 前編

 長らく巨人の主力として活躍し、引退後は巨人の打撃コーチや内野守備・走塁コーチ、総合コーチを歴任した篠塚和典氏が、各年代の巨人ベストナインを選定し、各選手のエピソードを語る。

 以前選んだ「1980年代の巨人ベストナイン(※記事を読む>>)」の中で2人目に語るのは、篠塚氏と同時代に巨人の4番として活躍した原辰徳氏。原氏の入団時の印象や原氏とのポジション争いに関するエピソードを聞いた。


レコーディングを行なう、若手時代の原辰徳(左)と篠塚和典 photo by Sankei Visuel

【原のバッティングと守備の特徴】

――原さんは東海大相模高、東海大時代にスター街道を歩んで鳴り物入りで巨人に入団しました。バッターとしてどんなイメージを持っていましたか?

篠塚和典(以下:篠塚) 高校、大学時代のバッティングを見て、長打を打てるバッターという印象がありました。その頃の巨人は4番バッターを確立していかなければいけない時期だったので、その候補としてチームの期待は大きかったと思います。 

――実際にバッティング練習などを間近で見た時の印象は?

篠塚 イメージしていた通りのプルヒッター、引っ張るタイプのバッターでしたね。右手がすごく強かったこともあって"右手で打つ"感じで、フルスイングが特長のひとつ。パワーもありましたし、ボールに合わせていく感じのバッターではありませんでしたね。

 ただ、プロのピッチャーを打っていくために、「逆方向にも打たなきゃいけない」と考えたんでしょう。年を重ねていくごとに、意識して右に打つバッティングも覚えていったように思います。

――原さんのホームランは、高い放物線を描いていましたね。

篠塚 滞空時間の長さからもやはり長打を打つタイプでしたし、スイング的には上から叩くというよりも、アッパー気味に振り上げるという感じでした。

――守備はいかがでしたか?

篠塚 肩の強さも含め、送球がよかったですね。サードからファーストに投げる時に回転がいい球を投げていましたし、送球が安定していて捕ればアウトにできる感じでした。故障やチーム事情で外野を守っていた時期もありましたが、当初は、外野はちょっと心配して見ていましたね(笑)。

――タイプとしては内野手?

篠塚 そうですね。ただ、本人の中では外野もやってみたかったのかもしれません。長年セカンドを守っていた自分も、「外野もやってみたい」と思うことがありましたから。ただ、ある程度は肩に自信がないと外野は難しい。原の場合は肩がよかったので、首脳陣の判断で外野を守らせてみたのかもしれませんね。

――ちなみに、篠塚さんが外野を守ってみたいと思われた理由は?

篠塚 現役時代の晩年、持病の腰痛の影響もあって緒方耕一や元木大介が試合に出るようになり、出場機会が減った時期があったんです。その時に「外野でも守らせてくれないかな」と。外野のポジションはどこでもよかったから、とにかく試合に出たかったんです。

【原のセカンド起用に、当初は「くそっ」】

――原さんの性格面についてはいかがでしたか?

篠塚 最初はチームに馴染まないといけないということで、手探りで先輩と少しずつ話していく感じでした。最初からガッと距離を詰めるタイプではなく、大人しくて真面目な印象がありましたね。お父さん(原貢/東海大学硬式野球部の名誉総監督)から厳しく指導されてきたでしょうから、その影響もあったと思いますし、頭のいい選手でした。

――1981年はルーキーだった原さんがセカンドのポジションを任されることになり、篠塚さんは開幕を控えで迎えることになりました。その時の心境はいかがでしたか?

篠塚 それまで長くレギュラーで出ていたり、プロで何年も活躍していたら、文句を言いたくなったり「チームを出たい」と思ったりしたかもしれません。ただ、当時は自分も試合に出始めた頃でしたからね(プロ入り5年目の1980年に初めて100試合以上出場)。当時の藤田元司監督がそう決めたわけですし、「素直に受け止めなければいけない」と思いました。

 開幕前のオープン戦で、自分がベンチスタートで原が先発で出ていたので、原をセカンドで起用しようとしていることには気づいていました。そんな時に前監督のミスター(長嶋茂雄)が電話をかけてきてくれて、「チャンスが来るから腐るなよ」と。この言葉がすごく励みになりました。

――再度スイッチを入れ直すことができた?

篠塚 そうですね。いつ来るかわからないチャンスに向けて準備しなければとミスターにも励まされ、思い直しました。逆に原のほうが嫌だったんじゃないかな。高校、大学とずっとサードを守ってきていたけど、サードには中畑清さんがいたからセカンドを守ることになって。それと、自分も原も寮にいたので、自分が運転する車に原を乗せて一緒に練習グラウンドに行ったりもしていましたし、原のほうは気まずい気持ちがあったかもしれません。

 自分のほうは、最初こそ「くそっ」と思いましたが、すぐに気持ちを切り替えることができました。練習でセカンドのポジションを原と一緒に守りながら、技術面のことなどいろいろアドバイスしたりもしていましたから。

――篠塚さんにとっては、セカンドのレギュラーを確固たるものにするため、並々ならぬ気持ちで臨んだシーズンだったはずですし、ルーキーの原さんにポジションを奪われる形になって心中穏やかではなかったと思います。

篠塚 開幕前のベロビーチ(米フロリダ州)のキャンプでは、第3クールまで原はセカンドの練習をしていなかったんです。それで最終クールの時にセカンドに来て練習をし始めました。

 その後、宮崎キャンプの時にセカンドのスタメンで練習試合に出たので、「あぁ、ベロビーチの最終クールで、原にセカンドの練習をさせたっていうのはそういうことか」と。新聞でも「今年は原をセカンドで起用する」みたいなことが書かれていて......。だけど、「冗談じゃない」という思いで過ごしたのはその日だけですよ。

 次の日からはスパっと切り替えましたね。首脳陣の中で開幕は「セカンド・原」でいくと決めていたのかもしれませんが、腐らずにポジション争いをしていこうという気持ちになっていましたから。

――ポジション争いをする相手と一緒に、車で練習グラウンドへ向かう雰囲気はピリピリしていそうですね。

篠塚 でも、その時は車の話をしたり、野球以外の内容の会話が多かったですから。いつだったか、原がポルシェを買った時には、僕の家まで見せに来たこともありましたね。どういう気持ちだったかはわかりませんが、会話は普通にできていましたよ。

(中編:王貞治が引退した巨人に原辰徳がもたらしたもの 「待望の中心打者、新たな4番候補だった」>>)

【プロフィール】

篠塚和典(しのづか・かずのり)

1957年7月16日、東京都豊島区生まれ、千葉県銚子市育ち。1975年のドラフト1位で巨人に入団し、3番などさまざまな打順で活躍。1984年、87年に首位打者を獲得するなど、主力選手としてチームの6度のリーグ優勝、3度の日本一に貢献した。1994年に現役を引退して以降は、巨人で1995年〜2003年、2006年〜2010年と一軍打撃コーチ、一軍守備・走塁コーチ、総合コーチを歴任。2009年WBCでは打撃コーチとして、日本代表の2連覇に貢献した。