大引啓次がプロ野球引退後大学院に進んだ理由「大事なのはどれだけ社会に貢献できるか」
「プロ野球で1億円稼いだ男のお金の話」 大引啓次(後編)
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2019年限りで現役を引退した大引啓次氏は、20年にかつて所属した日本ハムの業務提携先であるテキサス・レンジャーズに特別研修コーチとして派遣。しかし、コロナ禍の影響により約1カ月の滞在に終わってしまう。それでも21年から日本体育大大学院でコーチング学を学びながら、同大学の野球部でコーチとして指導するなど、多忙な日々を送っている。そんな大引氏にセカンドキャリア、今後の目標について語ってもらった。
日本体育大学で臨時コーチとして指導を行なっている大引啓次氏 photo by Kyodo News
── 引退を決めた時、大引さんはどんな進路を考えたのでしょうか。
大引 20代の若いうちは、引退後のセカンドキャリアについて考えることはありませんでした。いずれやめなければいけないとわかってはいますが、まだまだ先のことだろうと思っていました。私が真剣に考えるようになったのは故障が増えてから、スワローズに入った頃でしょうか。
引退後もすぐに進路を決めることなく、じっくり考える時間を持てたのは、多少の貯えがあったから。明日の生活のために働かないといいけないなら、そうはいかなかったでしょうね。指導者としてリスタートするのなら、アメリカで勉強したいと思いました。
── 大引さんの実績は申し分ありません。そのままコーチになれると思いませんでしたか。
大引 野球自体を一度、勉強し直そうと考えました。「球団に貢献してくれたからそのまま残してあげよう」というのは、ちょっと違うんじゃないかと思って。30代のうちに、指導者としての足場をしっかりと固めようと。プロで長くプレーしてきたんだから、それを教えればいいと考える人もいるでしょうが、私はそうは思いませんでした。私がやってきたことが本当に正しかったのか。自分の方法が別の誰かにそのまま当てはまるのか。そういう疑問がありました。
── いいコーチも、そうではないコーチもいるということですか。
大引 私がプロで在籍したチームはどこも常勝チームではなかったので、コーチの入れ替えも頻繁にありました。もちろん、すばらしい方もいましたが、「どうなんだろう」と首をかしげざるを得ない人もいました。10人の選手を10人、みんなを幸せにすることは難しいでしょう。でも、一人ひとりが成長できるように導くのがコーチ、指導者の役割ではないかと考えました。
【マイナーリーグで見つけた方向性】── 大引さんは2020年1月、コーチとして学ぶためにアメリカに渡りました。
大引 テキサス・レンジャーズの指導に入れていただいて、感じるものがありました。アメリカの文化なのかわかりませんが、選手とコーチが対等なんですよ。お互いがお互いをリスペクトしていることに驚きました。とくにマイナーリーグのコーチは毎日の練習メニューを考えて、どうすれば選手がうまくなるのか、どうすれば飽きさせることなくトレーニングさせられるかを考えていました。レンジャーズでというよりも、将来メジャーのどこかのチームでプレーできるように指導しているように見えました。
── しかし、新型コロナウイルスの世界的な流行によって方向転換を迫られることに。
大引 コーチ留学は1カ月ほどで断念せざるをえませんでした。でも、アメリカに行ったことで、自分が目指す方向が見つかりました。その後、日本体育大学の伊藤雅充先生とお話する機会を得て、コーチング学を勉強させていただくことになりました。
── 伊藤教授は、選手が技能を伸ばすためには、自ら学ぼうとする意欲こそが重要だという「アスリートセンタード・コーチング」を提唱していますね。
大引 大学院に進んだことで、年齢がひと回り下の人たちや野球以外のスポーツをしてきた人と一緒に学ぶことができました。個人競技、団体競技の違いもありますし、記録を競うものも体をぶつけ合うコンタクトスポーツもあります。そういう垣根を越えて、さまざまなことについてディスカッションすることができる貴重な機会となりました。
── それと同時に、日本体育大学野球部の臨時コーチに就任されました。
大引 自分でも学びつつ、これまでのアマチュア、プロ野球での成功体験をもとに指導をしています。ただ、それがその選手にとって正解かどうかはわかりません。ずるい言い方になるかもしれないけど、「選択肢を出すけど、選ぶのは君だよ」と言っています。
── 自分ができることと、誰かにやらせることは同じではありませんか。
大引 指導者として実績のある方は、何年も何年もコーチをしながら、教え方や伝え方を変えているんだと思います。その人がたしかな技術や見識を持っていたとしても、そこが間違っていたら意味がない。私はコーチとしては、まだまだこれから。勘違いしてはいけないと思います。
体格も利き腕も利き目も、育ってきた環境も違います。本当にいろいろなタイプがいます。全員をパーフェクトに教えることは不可能でも、その確率を上げていきたい。「自分がうまくいったから、同じことをやれ」とは言いたくない。自分の型にはめるような指導はしたくないんです。
【才能以外の部分でどう戦うか】── バッティングフォームも、ピッチャーの投げる変化球の種類も、守備のセオリーも、時代によって変わってきています。
大引 昔のやり方がすべて正しいとも限らないし、新しいものが全部いいかというとそういうわけでもない。その選手がどういう意図で練習しているかを聞いてみないとわからない部分もあると思っています。
── 大引さんのセカンドキャリアはまだ始まったばかりですね。
大引 私はずっと野球に携わっていきたい。だから、それを続けるために正しい知識を身につけたい。日本では子どもの数が減っているし、野球をやる子も少なくなっています。もっと野球に憧れるようなことしないといけない。現役時代、もっと野球教室をやっておけばよかったと反省しています。
── 大引さんは指導者として、何を伝えようとしているのでしょうか。
大引 元プロ野球選手だったとはいえ、指導者としては学ぶことばかりです。野球がうまかったからと言ってすごいわけでもないし、お金をたくさん稼いだからといって偉いわけでもない。大事なのは、どれだけ社会に貢献できるかだと考えています。
── 大引さんの13年間の通算成績は、1288試合に出場して1004本安打、48本塁打、356打点、67盗塁、234犠打、打率.251でした。プレーヤーとしてのキャリアのうえに、指導者としての知識、技術を積み重ねているところですね。
大引 プロでの私には、守備の人というイメージがあったと思いますが、バッティングを教えるのも好きなんです。走塁もそうです。私自身、プロとしてはそんなに大きくない体(178センチ、80キロ)でプレーしながら、とんでもない能力を持つ選手たちが集まるプロ野球でどうすれば生き残れるかを考えてきました。頭を使った野球をするしかない。いかに相手のスキをつくか、どうすればひとつ先の塁に進めるかを自分で考え続けました。才能以外の部分でどう戦うかが大事なんです。そういうことを教えられるように、日々学んでいます。
大引啓次(おおびき・けいじ)/1984年6月29日、大阪府生まれ。浪速高2年時に春のセンバツ大会に出場。法政大では首位打者2回、ベストナイン5回を獲得し、2006年の大学・社会人ドラフトでオリックスに3位指名を受け入団。好守・巧打の内野手として活躍。13年1月にトレードで日本ハムに移籍し2年間プレー。14年オフにFA権を行使してヤクルトに移籍。19年に現役を引退した。20年に学生野球資格回復の認定を受け、翌年には日本体育大学大学院に入学。コーチングを学びながら同校の硬式野球部臨時コーチに就任し、学生の指導を行なっている