人の心は単純ではない。

たとえ友情や恋愛感情によって結ばれている相手でも、時に意見は食い違い、衝突が起きる。

軋轢や確執のなかで、感情は歪められ、別の形を成していく――。

これは、複雑怪奇な人間心理が生み出した、ミステリアスな物語。

▶前回:気になっている女性とエレベーターで2人きりに。チャンスだと思った男は、思わず大胆な行動に出て




努力の方向性【前編】


「なあ、岳。お前、なんで仕事辞めちゃったんだよ」

駿介は、友人の岳を問い詰める。

岳から退職の報告を受けたとき、駿介は驚いた。あまりに急なことだったから、丸の内にある『東京ビアホール&ビアテラス14』で話を聞くことにした。




駿介と岳は高校の同級生で、10年来の付き合いになる。

2人は同じ名門私立高校に通い、共に東京大学に進学。卒業後、駿介は大手証券会社に就職し、岳は大学院で博士課程を修了後、研究職に就いていたのだが…。

「飽きちゃったんだよ。もう、研究はいいや」

「それだけの理由?まあ、岳らしいっちゃらしいけど…」

駿介はあきれたものの、これまで積み上げてきたものを躊躇いもなく放棄する岳の生き方に、どこか感心していた。

2人は互いに高校のころから成績はトップクラスだったが、勉強に取り組む姿勢は真逆だった。

駿介は、目標を立ててそれに向かってひたむきに努力を積み重ねていく実直なタイプ。好きな言葉は『努力は嘘をつかない』だ。

一方の岳は、いざとなると凄まじい集中力を発揮するものの、普段は勉強そっちのけで趣味に時間を費やしていた。大学時代も急に1年間休学をして、海外に放浪の旅に出てしまった経緯がある。

駿介は、そんな岳から刺激を受けることが多く、正反対な性格ながら懇意にしてきた。

「じゃあ、今は何もやってないわけ?」

駿介が尋ねると、岳が「まあね」と言ってビールをグビリとあおる。

「あ、でも。実は今、ハマってるものがあるんだ」

「ハマってるもの?」

「ああ。これからそこに行くんだけど…」

岳が腕時計を見る。

「よし、丁度いい。駿介、お前もついてこい!」

夏の終わりの夜風にシャツをなびかせ、颯爽と歩いていく岳のあとを、駿介はとりあえず追った。


修平に連れられてこられたのは、秋葉原にあるライブハウスだった。

電気街にある建物の階段を降り、地下の重い扉を開くと、騒がしい音楽とともに男たちの怒号のような歓声が聞こえてくる。




「どうだ、駿介。すごい熱気だろう?」

周囲の音にかき消されないよう、岳が声を張る。

「お前がハマってるのって、地下アイドルってこと?」

いつの間にか法被を羽織った岳が、頷いて返した。

行われているのは、アイドルが数組出演し、30分ほどのパフォーマンスを順に披露するイベントのようだった。

「じゃあ。これから俺の“推し”の子たちが出るから、前に行くわ!」

岳は手に持っていたペンライトを点灯させると、気合を入れるようにひとつ飛び跳ね、人混みをかき分けて前列へと突き進んでいく。

ひとり残された駿介は、居場所を探すようにさまよい歩き、会場後方にあるバーカウンターに辿り着いた。

注文したジントニックを片手に、息をつく。

― こういうとこ初めて来たけど、確かにすごい熱量だわ…。

ステージ上でパフォーマンスを繰り広げるアイドルに合わせて、男たちが踊り叫んでいる。客のなかには若い女性の姿も見られた。

雰囲気に圧倒されつつ、ジントニックを片手に静観していると、ステージ上に次のアイドルが姿を現した。

ピンクをベースにしたフリフリのコスチュームに身を包み、マイクを持って佇む20代前半と思われる女性。『石ノ瀬理沙』と名乗った。




客席から、「りさぷぅ!」と声をかけられ、手を振り返していることから、それが愛称なのだとわかる。

ステージ上の理沙の様子を眺めていると、どういうわけか駿介は惹かれるものを感じた。放っておけないような、庇護欲を掻き立てられるような感覚をおぼえた。

音楽が流れ始め、理沙がパフォーマンスを始める。

楽曲も、歌のレベルも、到底一流とは言い難いレベルだった。

だが、歌い踊る理沙の姿を見ていると、無性に感情が高ぶった。

曲が終わるごとに、理沙のMCが入る。

「つい先日、お母さんの誕生日だったんですよ」

MC中、彼女は母親について触れた。

「その日に、妹と一緒にお墓参りに行ったんです」

理沙は、幼いころに母親を亡くしているというような話を、それとなく呟いた。

― そうか。苦労してるんだな…。

駿介は同情を寄せながら話を聞く。理沙の生い立ちは、随分と不幸であるようだ。

母親は、妹を産んだあとにすぐ父親と離婚。女手ひとつで育てられたものの、母親の亡きあとは親戚をたらい回しにされ、貧しい生活を強いられたと語った。

母親の姿を思い返すように遠くを見つめながら話す彼女の姿に、いつの間にか駿介は引き込まれていた。

最後に、「お母さんありがとう…」と声を震わせて言った瞬間、駿介のハートは完全に射抜かれる。

― この子は、とんでもない努力をしてきたに違いない!

駿介は、努力がすべてという自分の生き方に、理沙の生い立ちを重ねた。

「ごめんなさい。こんな場所で湿っぽい話をしてしまって…。次の曲にいきますね」

理沙が目もとの涙をサッと拭い、マイクを構えた。

「次は新曲です。聴いてください。『初恋トゥインクル』」

MCの内容から一変して、陽気なメロディが流れ始める。

せっかくの感動が台無しになりかねないナンセンスな変わりようだが、それを意に介さない理沙のギャップに、駿介はいっそう強く心惹かれた。

持っていたジントニックを一気に飲み干すと、会場前方へと駆け出し、人混みのなかに割って入っていった。


ライブ終了後、会場を出た駿介と岳は、近くにある深夜まで営業しているカフェに入った。

「いやぁ…。思いのほか良かったわ。自然と体が動いたよ」

ライブ中、駿介は人混みをかき分けて前列へと割って入り、周囲に合わせて見よう見まねで踊りながら理沙に声援を送った。

「ビックリしたよ。あんな駿介を見たの初めてだったから」

「なんか、応援したくなったんだよな」

「りさぷぅだろう?わかる!頑張ってる感じが伝わってくるもんな」

「グッズもこんなに買っちゃったよ」

駿介の足もとには紙袋が置かれており、中身は理沙の応援グッズで溢れている。

物販コーナーに置いてあった理沙のCDやTシャツ、うちわ、ステッカーなど、残っていたものは全種類購入した。

そして、売り場に立っていた理沙と固い握手を交わし、「頑張ってください!」と力強く伝えた。

「あの子は、きっとブレイクすると思う」

理沙の披露した楽曲はイマイチで、歌唱も粗削りだ。だが、彼女は努力を惜しまないタイプだと駿介は確信した。

ひとつひとつ課題をクリアし、着実にステップアップしていくだろう。駿介は、成功を手にしていく理沙の姿を見届けたいと強く思う。

「岳。今日は、連れてきてくれてありがとな」

駿介は、心から礼を述べた。

つい話し込んでしまい、店を出るのが23時を過ぎてしまった。

岳と別れた駿介が、タクシー乗り場のほうへと向かっていると…。

― ああっ!りさぷぅだ!!

30メートルほど先から自分のほうへと向かってくる理沙の姿に気づいた。

ステージ上の派手なコスチュームから、20代前半の女子らしいシャツワンピースに着替えている。




― ん、んんっ?あれ誰だよ…。

道路に停まったアルファードから男が出てきて、理沙に向けて手を振ったのだ。

40代後半と思しき男は、腹回りにだいぶ脂肪を蓄え、頭髪も若干薄くなっている。金は持っていそうだが、洗練されているとは言い難い容姿だ。

― まさか、彼氏じゃないよな…。

手を振る男に気づいた理沙は、頭を下げた。気遣いの感じられるその仕草から、男女の関係ではないように思える。

駿介は、足を速めた。

理沙が男のもとに辿り着く前に接触して、ライブの感想を伝えたいと思ったのだ。

急いでアルファードの横を過ぎ、理沙のすぐ手前まで来て、声をかける。

「あの、今日…」

だが、理沙は気づく素振りもなく駿介の横を通り過ぎ、男のもとに歩み寄った。

物販コーナーで大量のグッズを購入し、固い握手を交わしていただけに、自分の存在くらいは記憶に残っているだろうと思っていたが、甘かった。

駿介は振り返ると、車に乗り込み走り去っていく理沙をぼうぜんと見送る。




ファンを無下に扱うような行動にも感じられたが、駿介が胸に抱いたのは理沙に対する不満ではなかった。

― あのくらいで覚えてもらおうなんて、虫が良すぎるよな。

駿介は思い上がっていたことを自覚し、まだ努力が足りないのだと、非があるのはむしろ自分のほうだと反省した。

存在を認識してもらうためには、まだまだ理沙に貢献しなければならないのだと、自分を戒めるのだった。

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▶1話目はこちら:彼女のパソコンで見つけた大量の写真に、男が震え上がった理由

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【後編】地下アイドルの応援に全力を注ぐ男。ある日、驚愕の事実を知り…