専業主婦になって後悔してる…。夫の稼ぎだけでやっていけると思った37歳女の誤算
平日の真ん中、ウェンズデー。
月曜ほど憂鬱でもないし、金曜ほど晴れやかでもないけれど、火曜とも木曜とも違う日。
ちょっとだけ特別な水曜日に、自分だけの特別な時間を持つ。
それが、アッパー層がひしめく街、東京で生き抜くコツだ。
貴方には、特別な自分だけの“水曜日のルーティン”はありますか?
▶前回:同棲して5年。彼女に内緒で、男が毎週出かける秘密の場所とは…
<水曜日の確認>
池之端小百合(37):主婦・フラワーアレンジメント講師
「小百合さん、今日もお世話になりました」
水曜日の生徒さんである遠藤さんが、瞳をキラキラと輝かせながら扉を出ていく。
― ふふ、プロポーズ上手くいくといいなぁ。
彼女にプロポーズするためにフラワーアレンジメントを習いたいだなんて、なんて可愛らしいんだろう。
見送りを終えた玄関でうっとりとため息をついていた私は、ハッと我に返って時計を確認した。
時刻はすでに、17時30分を回っている。
「いけない、もうこんな時間!」
大慌てで生花や道具をまとめると、私も、さっき遠藤さんを見送ったばかりの玄関から飛び出す。
「花には気持ちが表れるから」
と常々生徒さんにもお伝えしていることもあり、レッスンのときには私自身も華やかな服装を心がけているけれど…。
玄関で急いでつっかけたのは、先月夏休みで泊まったハレクラニ沖縄から持ち帰ってきた、アメニティのビーチサンダルだった。
とても生徒さんには見せられない姿だ。だけど、ここはどうか許してほしい。
なにせ目的地は、同じマンション内のたった1フロア上の階なのだから。
仕事場兼趣味の部屋として使っている3階の1LDKから、自宅である4階の4LDKへと小走りで移動する。
「ただいまぁ」
勢いよくドアを開けると、目に飛び込んできたのは──。
いつも通りの、うんざりするような光景だった。
今朝の朝食とお弁当作りの残骸が積み重なったシンク。
上の子たちの脱ぎ散らかしたパジャマ。
畳みきれず山積みになった洗濯済みの衣類。
末っ子が放り出したおもちゃやクレヨン…。
目も当てられないほどグチャグチャな自宅の有様を前に、思わず深いため息が漏れる。遠藤さんをうっとり見送ったときとは、全く種類の違うため息だった。
長男を出産したのが12年前。長女は9年前。次女は7年前。次男は3年前。
つまり私は、中1男子、小4女子、小1女子、年少男子の4人の母親をしている。
学校は、全員バラバラ。朝から朝食を作り、お弁当を作り、それぞれの登校の準備を手伝い、登園に付き合う。
午後は幼稚園のお迎えに、それぞれのお稽古や塾の送迎。
3人分の宿題を見て、夕飯を作り、洋服や体操着の洗濯をし、末っ子をお風呂に入れて、大人数の食器を洗って、末っ子の寝かしつけをして…。
正直、頭がおかしくなりそうな時もある。
夫は、家事や育児ではとても頼ることはできない。実家の不動産業を手伝いながら学習支援系のスタートアップの代表もしていて、信じられないほどに多忙だから。
フラワーアレンジメントの生徒さんたちからは、「小百合さんが羨ましい」とよく言われるけれど、それはきっと、“講師である私”のことだ。
特に、火曜日の生徒さんである須田さんは、まだお子さんのいない新婚さんという立場もあるのだろう。
「小百合さんは、お子さんにたくさん恵まれて幸せですね」
なんて言われることが多いけれど、こんな有様を見たら幻滅させてしまうかもしれない。
「そうですねぇ。本当にいつも賑やかなんですよ」
羨望の言葉を浴びるたびにそんな言葉を返していた。だけど、少し前までは自分でも、疑問に思っていたのだ。
― 私、本当にこれで幸せなのかな?
と…。
「うわぁ。相変わらず、すんごい有様だなぁ」
悪気はないのはわかっている。
けれど、夜中に帰ってきた夫が、メチャクチャなリビングに立って言うそんなセリフが、あの頃はどうしても許せなかった。
「だったら自分でやれば!?」
そう言い返せない自分も悪いのもわかっている。そもそも家事が行き届いていないのがいけないのもわかっている。
だけど私だって、夫ほどの収入はないかもしれないけれど、渋谷で小さな店が開けるくらいにはそこそこ名の知られたフラワーアーティストとして活躍していたのだ。
ただ、どちらの方が“今”大切にすべき仕事なのか。
どちらの方が、家族6人の生活を守っていくのに現実的な仕事なのか。
どう考えてみても、答えは明らかだったから…。
長男の中学校入学、次女の小学校入学、次男の幼稚園入学を機に全てが回りきらなくなったタイミングで、私は、フラワーアーティストの仕事を辞めることにした。
私が専業主婦になることで、家庭はどうにか回るようになった。けれど、それでも主婦になった直後は、心にぽっかり穴が空いたようだった。
綺麗に片付いた部屋で。
子どもたちの安らかな寝息のそばで。
今までとは反対に時間を持て余した私は、ただひたすらぼんやりと座っていた。
そんな時だった。いつもの通り、日付が変わるころに帰ってきた夫が、綺麗に片付けが行き届いたリビングに立って言った。
「はぁ〜。綺麗な家!やっぱり、主婦が家にいるっていいなぁ」
その瞬間…。
私の両目から、急に涙がこぼれ始めたのだ。
「ちょ、ど、どうした?小百合?」
満足げな表情を浮かべていた夫が一転、ぎょっとした表情を浮かべて駆け寄ってくる。
私の肩を抱き寄せようとするけれど、私はその手を思い切りはねのけて言った。
「私ばっかり。どうして私だけ、家事も育児も。私だってもっと、お花の仕事…!」
言葉にならない声が喉でつかえる代わりに、感情は涙となって両目から溢れ続けた。
最後には、まるで末っ子の旬が叱られた時みたいに、私はついに声を上げて大泣きしたのだった。
「ごめん…。小百合がそこまで思い詰めてたなんて、知らなかった。家事なんてどうでもいいよ、小百合に笑っていてほしいよ」
少し落ち着いた私に、夫が触れる。そっと、散りかけの花を触るように。
私はすこし躊躇したあと、ゆっくりと夫の肩に頭を預ける。
そして、ずっと胸の奥底に押し込んでいた気持ちをひとつひとつ摘み上げ、束ね…。
勇気を出して、夫の前に差し出したのだった。
◆
― 結局あの頃は、コミュニケーションが全く足りてなかったのよね。子どものことばかりで、夫婦2人の時間なんて皆無だったし。
髪の毛を頭頂部でまとめて引っ詰めた私は、そんな出来事を振り返りながら、散らかったリビングをとにかく目のつくところ片っ端から片付けていく。
どうにかリビングだけでも形になった頃。
ちょうど時計の針が午後6時を指し、時間通りにインターホンが鳴った。
「はぁい」
いそいそと出るやいなや、インターホンの向こうから大きな声が響いた。
「オクサマ〜!アンドレア来ましたヨ〜!」
アンドレアはあっという間にメインエントランスを通過し、自宅へとやってくる。
ニコニコと太陽みたいな明るい笑顔を浮かべたアンドレアは、片手にしっかりと、末っ子の旬の手を握りしめている。
「あぁ、アンドレアさん。アフタースクールのお迎えありがとうございます」
深々とお辞儀をしながら、「ママー!」と大はしゃぎする旬を抱き止める。すると、私の背後を覗き込んだアンドレアさんの表情が、にわかに曇った。
「オクサマ…!」
「え?は、はい…」
「オクサマ!またジブンで片付けしたでしょ!?今日くらいゼンブ、ワタシにまかせなきゃダメよ!
ワタシ、ホームヘルパーよ。シッターよ。水曜日しか来ないでしょ。オクサマ、ユックリするために来てるよ!」
そう。アンドレアさんは、頼れるホームヘルパーであり、子どもたちのシッターさんなのだ。
知人からの紹介でこの春から、水曜日に週1回だけお世話になっている。
「オクサマまったくもう〜、シュンちゃんのこといいからホラ、オシャレして!今日、水曜日ね。ダンナサマとデートの日でショ〜」
「は、はい…。ありがとうございます」
アンドレアさんに促されるままに、私は化粧台の方へと向かう。
そうだ。まだまだ慣れないけれど、私はもうリビングをピカピカにしなくてもいい。罪悪感を抱かなくてもいい。
花を扱うのに邪魔になるから、と外しておいたダイヤのエンゲージリングをはめながら、鏡の中の私自身に語りかける。
― そうよ。今日は、水曜日なんだから。
子どものように大泣きしたあの夜、夫と私は3つの約束をした。
お互いの気持ちを、きちんと確認すること。
私はもう少し、夫に甘えること。
それから…。
週に一回は、夫婦2人だけの時間を持つこと。
その3つの約束の結果、私は今フラワーアレンジメントの講師として、できる範囲でもう一度花に向き合うことができている。
そして、アンドレアさんが来てくれる今日…水曜日は、毎週夫婦2人でデートをすることになっているのだ。
今夜のお店は、ずっと行ってみたかった青山の『Mimosa』。
夫はその後また仕事に戻らなくてはいけないと言っていたから、慌ただしいディナーになりそうだけれど…。
「それでもいい」と思えるようになったのは、こうして僅かでも夫と2人の時間を持つようになってからのことだ。
子どもたちのことは、もちろん可愛い。仕事だって、本当はもっと頑張りたい。
だけど、忙しすぎる渦中にいると心を見失ってしまうから、今は夫婦でゆっくりとした時間を楽しんでいたい。そう、素直に思えるようになったのだ。
子どもたちと離れていると、「早くあの子たちに会いたい」と思う。
忙しい中時間を作ってくれている夫といると、「忙しい彼を応援したい」と思う。
諦められないことが多すぎる私にとって、毎週水曜日は、そんな幸せを確認する日──“確認の水曜日”なのかもしれない。
「わぁ、オクサマきれいねー!最高のデートになっちゃうね!」
フラワーアレンジメント講師ではなく、1人の女性としてドレスアップした私を見て、アンドレアさんが大げさな賛辞を送ってくれた。
私は、照れながらもその賛辞をしっかりと受け止めて答える。
「ありがとうございます、最高のデートにしてきますね。じゃあ、行ってきます」
おおらかなアンドレアさんの片付けるリビングは、正直に言うとどこか雑然としている。
けれど、そんなリビングに帰る水曜日が、夫も私も嫌いじゃない。
▶前回:同棲して5年。彼女に内緒で、男が毎週出かける秘密の場所とは…
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