タワマンのエレベーターで、初恋の女性と再会。あまりの感動に15年越しの思いが暴走し…
人の心は単純ではない。
たとえ友情や恋愛感情によって結ばれている相手でも、時に意見は食い違い、衝突が起きる。
軋轢や確執のなかで、感情は歪められ、別の形を成していく――。
これは、複雑怪奇な人間心理が生み出した、ミステリアスな物語。
▶前回:失恋した女のアカウントに届いた多数の応援メッセージ。そこには思わぬカラクリがあって…
縁の先【前編】
― そうか…。エレベーターを待たないといけないのか…。
朝の出勤時、少々寝坊してしまった北野拓己は、慌てて玄関から出ようとしたところでその事実に気づいた。
以前の住居はマンションの3階だったため、毎朝ダッシュで階段を駆けおりていたのだ。20階ともなるとそうもいかない。
― おーい、早く来てくれよぉ…。
エレベーターホールにやってきた拓己は、願うような思いでボタンを押した。
すると、思いのほか早くエレベーターが到着した。
ドアが開くと、上の階から降りてきたと思われる先客がいる。パンツスーツ姿の、髪の長い凛とした女性だった。
「すみません…」
拓己が申し訳なさそうに乗り込むと、「おはようございます」と女性から挨拶を受けた。
ドアの前に立ち、階数表示板を見上げる。
拓己は何気ない様子で立っているものの、不意に湧き上がった緊張感に、体を強張らせた。
エレベーター内の狭い空間にいることが息苦しく感じ、鼓動が速くなっていく。
あっという間にエレベーターは1階に到着し、拓己は開放ボタンを押して、背後の女性に先に出るよう促した。
その横顔をチラッと見て、拓己は思う。
― 間違いない…。やっぱり、彼女だ!
女性の名は、『美桜』。
拓己にとって、忘れようにも忘れられるはずのない人物。
それは、中学生のころ、初めて恋心を抱いた相手だった。
颯爽と歩いていく美桜の後ろ姿を、拓己はどこか夢見心地で見送った。
会社へと向かう電車に乗り、拓己はようやく落ち着きを取り戻した。
― まさか、あんな場所で彼女と会えるなんて。しかも2人きりで…。
美桜との再会は中学を卒業して以来、約15年ぶりとなる。
とはいえ、おそらく美桜は拓己の存在を認識はしていない。
というのも、2人は同じ学校に通っていたわけではなかったからだ。
拓己が最初に美桜を目撃したのは、中学3年生になってすぐのころ、通学途中の電車の中だった。
美桜は、拓己が通う学校の最寄り駅の、1駅先にある女子中学校に通っていた。
その姿を見た瞬間、心を奪われた。
長い髪に、大きな瞳は、清純そのもの。制服を着て凛と佇む姿には、まるで芸能人のようなオーラが漂っていた。
あまりの衝撃に、拓己のなかにあった思春期特有の鬱屈した感情は払拭された。代わりに吹き込んできた爽やかな風に、拓己は体内を浄化されたような気分になった。
― 懐かしいな…。あの時間にエレベーターに乗っていたってことは、同じマンションに住んでるってことだよな…。
拓己のなかに、激しく心を掻き乱された当時の感覚が蘇る。
◆
美桜と再会を果たした翌々日、拓己は同じ大手通信会社に勤める同僚の高杉を誘い、『丸の内ハウス』に来ていた。
「で、北野。その『美桜』っていう女が、初恋の相手ってことか」
テラス席で夏の夜風を浴びながら、高杉がビールをあおる。
「付き合ったりしてたわけじゃないんだろう?」
「そんなわけないだろう。会話すらしたことなかったんだから」
エレベーター内で再会したときの朝の挨拶が、初めての会話だった。
「学校も違うし、共通の知り合いもいないのに、よく名前がわかったな」
「同じ電車に乗ってるときに、友だち同士で話している会話が聞こえてきて、そこで『美桜』って呼ばれてたから」
「盗み聞きかよ。キモッ!」
「高杉。それを言うなよ…」
当時は話しかける勇気もなく、名前を知るにはそんな手段しかなかった。
「告白とか、しようと思わなかったのかよ」
「告白というか…。一応、最後に思いは告げようとしたんだよ。だから卒業する直前に、彼女の最寄り駅と思われる駅で待ち伏せしてたんだけど、結局姿を現さなくて…」
「待ち伏せって…。しかも、なんで最寄り駅を知ってるんだよ。ストーカーじゃん」
「もう、なんとでも言ってくれ…」
確かに、美桜がどの駅を使っているのかが気になって、あとをつけたこともあった。
美桜の姿をひと目見たいと、女子中の駅のほうまでわざわざ遠回りして帰ることもしょっちゅうだった。
とにかく、中学3年のころは、四六時中美桜のことを考えていた。美桜に捧げた1年間だったと言える。
しかし、当時の行動はすべて純粋な恋心に基づくものであり、ストーカーなどという悪意を感じる言葉で表現されるのは承服しかねるところがある。
「でも、彼女とはまったく縁がなかったんだよな…」
日が経つにつれ、電車で鉢合わせることもなくなり、顔を見る機会も減り、ただただ思いを募らせるもどかしい毎日が続いた。
「誰か、友だちとかに恋愛相談したらよかったのに」
「俺、当時暗くてさ。そんなこと相談できる友だちがいなかったんだ」
親しい友人もなく、ただ鬱屈とした日々を過ごすなかで差した一筋の光こそが、美桜との出会いだった。
「でも高杉、すごくないか?当時はあんなにも縁がなかったのに、今になって毎日のように会ってるんだぜ」
美桜との再会を果たした日から3日間、拓己は連続で彼女と同じエレベーターに乗り合わせていた。
しかも、挨拶の延長程度ではあるものの会話も交わすようになり、美桜がひとつ上の階に住んでいることも知った。
「もしかしたら、俺たち実はすごく深い縁で結ばれているのかも…」
中学生のころは出会ったのが早すぎただけであり、時が経った今こそが運命の重なり合ったタイミングのような気がしてきている。
「いや、北野。待てよ。お前には真由ちゃんがいるだろう…」
高杉に言われ、現実に引き戻される。
真由は、拓己が2年付き合っている、ひとつ年下の恋人だった。結婚の約束もしており、タワーマンションの部屋を購入したのも、2人での生活を見越してのことだ。
「そうなんだよ、それに…」
思い浮かべたのは、また美桜のことだ。
「彼女、結婚してるんだ…」
「なんだ、既婚者かよ。やめとけやめとけ。まあ、縁もここまでってことだな」
高杉の言葉を受け入れるまでには、もう少し時間がかかりそうだった。
◆
翌日。
土曜日で仕事は休みのため、拓己は昼ごろに目を覚ました。
多少の二日酔いを感じながらダラダラと過ごし、夕方ごろに部屋を出て、マンションに併設されているスーパーに足を運んだ。
― あ、ああっ!美桜さんだ…。
飲みもののコーナーに向かっている途中で、買い物かごを持つ美桜の姿を見かけた。
― すげぇ。これで4日連続だ!
今朝はエレベーターで顔を合わせることもなかったので、まさかの出会いに胸が躍った。
美桜の存在に気づいていないような素振りで、拓己はあとをついていく。
「こ、こんにちは…」
調味料の棚を覗く美桜に、偶然を装い声をかけた。
「…あっ。北野さん、こんにちは」
美桜が顔を上げて、ニコッと微笑んで挨拶を返した。
一気に体温が上昇し、体内に残っていたアルコールが蒸発するような感覚をおぼえた。
「か…買いものですか…?」
拓己は、もっと気の利いた会話はできないものかと、自分を不甲斐なく思う。
「ええ、そうなんです…」
美桜が返事をしたところで、背の高い男性が傍らに立った。
「おい、美桜。何やってんだよ」
ハイブランドの大きなロゴが入ったTシャツを着て、ゴールドのアクセサリーをつけた、いかにも成金趣味な男が呆れたような口調で言う。
「あ、うん。ごめん」
美桜が男に謝ると、拓己に向けて紹介を始めた。
「うちの、主人です」
拓己は男に向かって、「初めまして」と軽く会釈をした。続けて、拓己が紹介を受ける。
「こちら、同じマンションに住んでる北野さん」
男は拓己に向けてサッと一瞥した程度で、「どうも」とだけ言うと、美桜を急かした。
「ほら、早く行くぞ」
「うん…」
美桜は申し訳なさそうな表情で拓己に一礼すると、足早に去っていく男のあとをついていった。
― なんだよ、あいつ…。あれが、彼女の夫…?嘘だろう…。
美桜が、センスの欠片もない、不躾な態度をとる男を選ぶことが信じられなかった。
同時に、美桜の身の上を案じた。
― 彼女、本当に幸せなんだろうか…。
不釣り合いな2人に対し、何か複雑な事情があって一緒になったのではないかというところにまで憶測が及んだ。
― やっぱり、初恋の人には幸せでいてもらいたい。
拓己にとっての美桜は、かつて自分がさまよっていた陰鬱な世界から救い出してくれた恩人。
美桜がもし不幸な身の上にあるのならば、今度は自分が救い出さなければいけないのではないかと、使命感に駆られた。
▶前回:失恋した女のアカウントに届いた多数の応援メッセージ。そこには思わぬカラクリがあって…
▶1話目はこちら:彼女のパソコンで見つけた大量の写真に、男が震え上がった理由
▶NEXT:9月7日 木曜更新予定
【後編】男はついに、かつての思いを初恋の相手に告げるのだが…