「見てこれ」と彼が差し出したスマホ。画面に映る“奇妙なもの”を見て、女は絶句し…
人の心は単純ではない。
たとえ友情や恋愛感情によって結ばれている相手でも、時に意見は食い違い、衝突が起きる。
軋轢や確執のなかで、感情は歪められ、別の形を成していく――。
これは、複雑怪奇な人間心理が生み出した、ミステリアスな物語。
▶前回:パーティーで出会った美女と、食事の約束。しかし当日現れたのは別人で…一体どんな罠?
裏アカの裏事情【前編】
「ねえねえ、修。奥の席の人たち、私たちのことチラチラ見てるんだけど」
紀香は、テーブルを挟んで向かいの席に座る恋人の修に、目線で合図を送る。
「ううん。絶対見てたんだから」
自意識過剰気味…ではあるものの、紀香と修は互いに高身長でスタイルが良く、2人並んでいると注目を浴びる場面が多々あった。
紀香はどこか落ち着かない様子を見せる。
が、その理由は周囲の視線が気になるからだけではなかった。
今日は、修から「話がある」との連絡を受け、東京ミッドタウンにある『Union Square Tokyo(ユニオン スクエア トウキョウ)』で食事をしている。
交際期間も間もなく1年。もしかしたらプロポーズでもされるのではないかと、紀香は高揚感を隠し切れないでいたのだ。
― ああ…ドキドキしちゃう。言うなら早く言って!
紀香は現在27歳。フリーランスのWEBマーケターとして働き、多数のクライアントを抱え、十分な業績をあげていた。
修は、外資系金融会社に勤務するエリート社員で、絵に描いたようなハイスペック男子であり、結婚相手として申し分ない。
恋も仕事も絶好調。人生においても絶頂期と言えるこのタイミングで、結婚の話が出ることはあり得なくないと思っていた。
「話って…なに?」
紀香が待ちきれずに尋ねる。
「ああ、そうそう。これ、なんだけど…」
修がスマートフォンを取り出し、画面を上に向けて差し出した。
「んん?インスタ?」
InstagramのDMのページが開かれ、そこに届いていたメッセージを見て紀香は絶句する。
『お前の彼女は浮気している』
そんなメッセージが、紀香の目に入った。
「お前の彼女って…。私の…こと?」
「だろうね」
「いや。あり得ないから…」
紀香には、誠実な修に対して、自分も正面から向き合いたいという思いがあった。
「それは私も昔は…いろんな男と付き合ったり別れたりしていたことはあるけど…」
正直なところ、この発言から修が汲み取るであろう状況以上に、男を取っ替え引っ替えしていた時期はある。だが今は、気の迷い程度の浮気で修ほどの優良物件を手放したくないというのが本音だ。
「修も、そんな1通のDMぐらいで、動揺しないでよ…」
「いや、紀香。1通じゃないんだ」
修がスマートフォンを操作して、届いたDMを次々と開いて見せた。
― いったい誰がこんなこと…。
かつて自分が派手に遊んでいたときの行動を振り返ると、思い当たる節がないこともない。
「え、修…疑ってるの?本当に浮気なんてしてないよ」
「ごめん。信用できないんだ」
「別れる…ってこと?嘘でしょう…?」
紀香の問いかけに、修は黙って頷いた。
◆
翌日、紀香は気分転換を兼ね、行きつけのカフェで仕事をしていた。
― はぁ…。なんでこうなっちゃったんだろう…。
紀香は、開いたノートパソコンの前で深い溜め息をつく。
仕事をしようにもすぐに昨日の光景が頭をよぎり、喪失感に苛まれる。
修との交際は、結婚を見据えての真剣なものだった。
そのため、後ろ暗い繋がりのあるような男たちとの関係は断ち、危険分子は排除したつもりだったが、僅かに残っていたくすぶりから出火してしまった。
紀香はやるせない思いを抱えながら、奥の窓際の席を眺める。
― あの席も空いてないし…。
カフェは1階と2階に分かれており、2階席は平日の昼間は客も少なく快適に過ごせるため、たびたび仕事を兼ねて訪れては、決まった席に座っていた。
今日は珍しくいつもの2階の席が埋まっていて、それが自分の不幸な現状を暗示しているかのようにも感じられた。
― 失恋って、こんなに辛いものなんだ…。
紀香は今まで、失恋らしい失恋を経験してこなかった。
別れるときはいつも次の相手が決まっているときであり、交際相手から別れを告げられたことはない。
故に、今、紀香が味わっている感覚は未経験ものだ。苦しみを、これでもかというほど感じる。
― みんなもこんな経験してるのか。すごいなぁ…。
周囲を見渡し、数人の客に目を向ける。
この場所にいる誰もが失恋の痛手を乗り越えているのかと思うと、尊敬の念すら湧いた。
紀香はスマートフォンを手に取り、じっと見つめる。
誰かに話を聞いてもらいたい…という思いはあるものの、紀香は普段、自信に満ちた姿を周囲に見せているため、弱音を吐くのは躊躇われた。
― せめてSNSとかに吐き出せたらいいんだけど…。
TwitterやInstagram、Facebookなどに心境を綴りたいという思いもあるが、知り合いとつながっている以上、なんだか気が引ける。
そのとき、紀香の頭にある妙案が浮かぶ。
― そっか。こういうときに裏アカを使えばいいんだ!
誰の目に留まらなくても、とりあえず辛い心境を言葉にして吐き出すことで、少しは気分も楽になるかもしれないと思った。
紀香は早速、予備のメールアドレスを使って、Instagramに新しいアカウントの作成を試みる。
パスワードを設定し、適当なプロフィールやアイコンを添え、裏アカを完成させた。
すると、背後から声をかけられた。
「お客様」
振り返ると、よく顔を見る店員が立っていた。
「奥の席が空きましたが、移動されますか?」
いつの間にか、紀香の定位置が空いていた。
お気に入りの座席に移動した紀香は、さっそく裏アカに、恋人の修から別れを告げられた経緯を綴った。
そして、彼のことをどれだけ愛していたか、どれほど誠実に向き合っていたか、その思いが伝わらなかったことの無念さを、感情の溢れるままに書き連ねた。
言葉にして吐き出すことで幾分か気持ちは晴れたものの、ふとした瞬間に修の顔がよぎる。
◆
心が塞ぎがちになるなか夜を迎え、紀香はスマートフォンを手に取った。
― あ、コメントが来てる…。
裏アカの投稿に対して届いたコメントを覗いてみる。
すると、思いのほか同情を寄せる内容のものが多く目についた。
『今は辛いだろうけど、頑張ってください!』
『辛いのはそれだけ相手を愛してたから。いい恋愛をしてたってことでしょう!』
など、思いがけない励ましの言葉に、紀香の心は癒やされた。
― ええ…。なにこれ。ちょっと、嬉しいんだけど…。
上辺ではない誠意が込められたエールをもらい、同士を得たような心強い気持ちにもなった。
コメントのなかには、特に親身になってくれている様子が伝わる人が7人ほどいる。なかでもひとり、『SAYA』というアカウントの人物の言葉が、紀香の胸に響いた。
『失恋の特効薬は時間です』
そんなコメントに、紀香は返信をした。
「辛いときって、なかなか時間が経たないですよね…」
すぐに返事が届いた。
『見てるヤカンはなかなか沸きません。何かほかに取り組めるものがあれば、きっとすぐに時間は経ちますよ』
― 確かに。別のことをしていると、いつの間にかお湯って沸いてるもんね。
紀香は、自分が心に余裕を失い、視野が狭くなっていることに気づかされた。
ショックで何も手につかない状態であるが、考えれば考えるほど思考は行き先を失い、悪い方向へと進んでいくばかり。
― 私が今、取り組めるものって…。
身近にあるものだとまず仕事が浮かび、手をつけようという意欲が湧く。
ひとまず、紀香は仕事すらままならない状態からは抜け出すことができた。こうやって1歩ずつ進んでいくしかないのだと、前向きな考えを持てるようになっている。
紀香は、励ましのコメントをくれた『SAYA』 を含めた7人に、感謝の思いを抱いた。
◆
「そうそう。だから修と別れちゃったんだ。連絡遅れてごめんね」
修に別れを告げられてから1ヶ月ほど経過し、もともとの紹介者である友人の亜由美に、紀香は電話で報告を入れた。
まだ、完全に傷が癒えたわけではなかったが、以前までの勝気な姿勢で、他人と接することができるくらいまでには回復していた。
『そうなんだ。残念。お似合いだと思ったんだけど…』
「仕方ないよ。タイミングっていうものもあるから」
修への未練などまるで感じさせないように心がけ、通話を終えた。
― ふぅ…。これでまたひとつ肩の荷がおりた…。
紀香は、以前の自分の姿を取り戻しつつあることを実感し、スマートフォンを眺めた。
Instagramの裏アカを開き、やり取りしてきたコメントを覗く。
そこには、辛いときの心の支えとなり、勇気づけられた言葉たちが並んでいた。
読み返すと、また胸に熱いものが込み上げてくる。
主にやり取りしてきた7人への、感謝の思いは計り知れなかった。
そして、どうしても本人に直接会ってお礼を伝えたいという思いが湧き上がる。
― まあ、ダメもとで送ってみよ。
7人のなかのひとり、特に自分に寄り添ってくれているように感じた『SAYA』という人物のアカウントに、直接お礼を言わせてほしいという旨を添えたDMを、紀香は送ってみることにした。
▶前回:パーティーで出会った美女と、食事の約束。しかし当日現れたのは別人で…一体どんな罠?
▶1話目はこちら:彼女のパソコンで見つけた大量の写真に、男が震え上がった理由
▶NEXT:8月24日 木曜更新予定
【後編】裏アカにコメントを投稿した人物が明らかになり…