CL決勝進出のインテル、1999-2000の「世界最高のヤバすぎる攻撃陣」覚えてる?

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先日行われたUEFAチャンピオンズリーグの準決勝でライバルのACミランを撃破し、久しぶりの決勝進出に成功したインテル。

セリエAではこれまで一度も2部に降格したことがない唯一のクラブであり、英語のインターナショナルに通じる「インテルナツィオナーレ」の名前通り国内外から多くのスターを獲得してきたことで知られている。

今回は23年前となる1999-2000にインテルでプレーしていた「ものすごい攻撃陣のメンバー」をご紹介する。この6名が同じチームにいたという…。

ロナウド

1999-2000シーズンのインテルが大打撃を受けたのが、当時世界最高のストライカーであったロナウドの怪我だ。誰にも止めることができなかった彼であるが、膝の靭帯のほうがそのスピードを受け止め切れなかったのだ。

バルセロナで49試合47ゴールを記録した彼は、世界最高額の移籍金で1997年に獲得された。インテルにやってきてから18ヶ月間は驚異的なプレーを見せ、バロンドールも獲得したものの、その後怪我でほぼ2年半に渡る離脱を経験することになった。

1999-2000シーズンのリーグ戦出場もわずか7試合にとどまり、インテルは彼の穴を埋めるためのストライカーが必要になった。

ロベルト・バッジョ

もちろんロナウドは当時世界最高の選手だったが、ロベルト・バッジョもその数年前にはその座にあったファンタジスタであった。1993年にユヴェントスで世界最優秀選手に選ばれ、バロンドールを獲得した。

1998年にインテルへと迎え入れられた彼は負傷も増えていたため全盛期とは言えなかったが、それでもそのアイデアと巧みな技術でいくつかの絶妙な瞬間を作り出した。

そして退団が決まった2000年5月23日、チャンピオンズリーグ出場権を賭けたプレーオフのパルマ戦で2ゴールを奪取。素晴らしい置き土産を残してチームを離れていった。

クリスティアン・ヴィエリ

アトレティコ・マドリーとラツィオで多くのゴールを決めた「重戦車」クリスティアン・ヴィエリは、1999-2000シーズンを前に当時世界最高額の移籍金でインテルへと迎え入れられた。

キャリアの初期には様々なクラブを転々とした選手だったが、インテルで彼は居場所を見つけた。デビューシーズンで18ゴールを決め、5シーズン連続でクラブ得点王に輝いている。

最も素晴らしいシーズンは2002-03であり、23試合しか出場していないにもかかわらず24ゴールを叩き込んでセリエA得点王に輝いている。ロナウドが怪我をしていたためにほとんどともに出場していないのが残念である。

イバン・サモラーノ

イバン・サモラーノは「1+8」の背番号を着けたことで有名だ。ロナウドとバッジョの加入によってお気に入りの9番を明け渡さなければならず、苦肉の策として+を加える事を決めた。

しかしサモラーノも非常に素晴らしいサッカー選手だった。レアル・マドリーで活躍した経験も持つチリ代表ストライカーは、インテルでもチャンスが限られる中で138試合41ゴールを決めた。

ケガのせいでレアル・マドリー時代ほどの輝きはなかったものの、その闘争心と情熱でインテルのサポーターからも非常に大きな支持を受けた。

アルバロ・レコバ

ウルグアイ代表の「チーノ」ことアルバロ・レコバ。インテルでのデビュー戦でロナウドからスポットライトを奪ってみせた。遠距離から凄まじいシュートを叩き込み、さらに見事なフリーキックを決めた。

彼はインテルで10年間を過ごし、272試合で72ゴールを記録した。不安定さや怪我の多さは目立ったものの、その左足から繰り出されるキックは世界最高といって差し支えないクオリティがあった。

非常に知的でクリエイティブで、そして爆発力がある。彼ほどファンを湧かせた選手は他にいないだろう。

アドリアン・ムトゥ

アドリアン・ムトゥはルーマニアが産んだ天才だった。10代でディナモ・ブカレストの得点王になり、1999年にインテルと契約。ヨーロッパでのキャリアを急速に進めていた。

インテルではACミラン相手にゴールを決める結果を残したものの、流石にライバルが強烈過ぎた。1年後にはヴェローナへと移籍し、その後パルマで大ブレイク。アドリアーノ+中田英寿とともに伝説的な「トリデンテ」を形成し、のちにチェルシーへと引き抜かれていった。

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その後はコカインの使用によって出場停止処分を受けるなど苦しい時間を過ごしたが、2006年から所属したフィオレンティーナで一度鮮烈な復活を遂げている。